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倉敷 〜 海上交通の拠点から、内陸の物資集散地として繁栄。その地名由来は?

倉敷美観地区

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観光地と知られる倉敷市。
岡山県の南西に位置しています。。

倉敷市といわれてイメージされるものといえば、倉敷美観地区

倉敷市の市名は中心市街地の旧名 倉敷村が由来です。
倉敷村の中心となったエリアは現在白壁の町並として知られている倉敷美観地区でした。
そしてそれは倉敷村成立以前から倉敷と呼ばれていたところなのです。

つまり元来の倉敷とは美観地区周辺を指す地名 (倉敷=倉敷美観地区)なのです。

ではその倉敷美観地区の起源は?
また倉敷という地名はどこから来たのでしょう?

※ アイキャッチ画像は倉敷美観地区にある阿智神社の春季例大祭で町を闊歩する「素隠居(すいんきょ)」。
古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。

概要

倉敷美観地区

現在の倉敷美観地区は、倉敷市の中心市街地の南部。標高37mの鶴形山南麓一帯にあたります。

江戸時代に倉敷代官所が設置されて以来、物資輸送の基地として栄えた商業の町。

その倉敷の町と周辺の農村部を合わせて窪屋郡倉敷村と呼ばれるように。
美観地区一帯は、明治時代末ごろまで倉敷村の中心部として繁栄しました。

地名の由来

倉敷美観地区

物資の集積拠点を意味する一般語「倉敷地」が由来

倉敷の地名はいつ頃から呼ばれ始めたのかは定かではありません。

しかし地名の起源は「倉敷地」という一般用語から来ています。
中世より荘園が発達しました。倉敷地とは遠隔の領主へ年貢米等の物資を輸送するために、周辺の所領から集めた物資を集めておくための場所。
倉庫となった蔵屋敷や船蔵などが建ち並んだために「蔵屋敷の地」が変化したものとされます。

倉敷は、鶴形山周辺に倉敷地が置かれたことに由来するといわれます。
そしていつしか一般語であった倉敷地が、固有の地名「倉敷」として定着。ただし通称としてです。
これがいつごろのことなのかは前述の通り不詳です。

ちなみに倉敷市周辺では当倉敷の他に、備後国の尾道が倉敷地でした。主に世羅郡大田庄(現 世羅町)などの物資を集積していました。 しかし地名として残りませんでした。

また同じ岡山県内では美作国英田郡であった現在の美作市中心部の林野が倉敷地で、こちらは地名として残りました。しかし明治時代に郡は遠く離れていても同じ岡山県内に倉敷を名乗る自治体が2つあるの混乱を招いたようで、郵便物の誤配が多発したそうです。 最終的に古代郷名であった林野に改称するに至ります。

他地方にも大字や小字レベルで倉敷の地名が残されている場所もあるかもしれませんね。

歴史

 元は海に浮かぶ島 (古代〜中世)

倉敷美観地区 阿智神社 高灯籠

阿智神社境内の高灯籠。かつて周辺が海だった頃の名残ともいわれる

倉敷市中心市街の中部に鶴形山があります。東西約500m、南北の広いところで約250mばかりの独立山塊です。その山の周囲は古くから「倉敷」と呼ばれていました。

鶴形山の南側には「向山(むこやま)」と呼ばれる山を含んだ南北に長い独立山塊があります。
この山塊と鶴形山は、古くは島嶼でした。

現在の岡山平野の平地部の大半は江戸時代中期頃まで海。
吉備の穴海(きびのあなうみ)」と呼ばれていました。

古代において倉敷市平野では、現在の酒津や生坂あたりまで海が湾入していたといわれます。
高梁川は酒津の八幡山の北側で東西分岐し、八幡山のそれぞれ東西が河口となりました。東側が現在の酒津、西側は現在の水江あたりです。

この倉敷平野にあたる海は吉備の穴海の一部である「阿智の海(あちのうみ)」とも呼ばれていました。

鶴形山からは経塚(きょうづか=お経を埋めた遺跡)や鎌倉時代の鋼鏡が出土。

倉敷美観地区 阿智神社

阿智神社

同山には古社・阿智神社が鎮座しています。航海安全の神・宗像三女神が祭神です。
つまり古くから周辺は海洋交通の拠点だったと推定されます。
付近を航行する船舶が船を寄せて祭祀を行っていたのでしょう。

なお古代において海洋交通の拠点であってもその規模は小さかったと思われます。
小さな島嶼であったからです。
古代では国・郡・郷の制度がありました。倉敷は陸地側の郷の一部であったと推測できます。
備中国窪屋郡(くぼやのこおり、くぼやぐん)阿智郷(あちごう)の一部と考えられます。

阿智神社が鎮座しているのも理由です。
くわえて、陸地側にあたる現在の倉敷市生坂の範囲内には、江戸時代に窪屋郡東阿知村という村が存在していました。これは古代の阿智郷の遺称と思われます。

ちなみに阿智の海(現 倉敷平野)は備中国窪屋郡と浅口郡(あさくちのこおり、あさくちぐん)の境界となっていました。
そしてこの境界を挟んで窪屋郡と浅口郡それぞれに同名の「阿智郷」が存在していました。
双方を区別するために西阿智・東阿智の呼称が生まれたと思われます。
西阿智は現在も「西阿知」現存。JR山陽本線の駅もあるのでご存知の方も多いでしょう。

干拓により半島化 (戦国時代)

倉敷美観地区 倉敷川

美観地区内の倉敷川を航行する船

戦国時代頃には高梁川の運ぶ土砂の堆積により海ははしだいに遠浅となります。

このころには干潮時には干潟が出現するようになったといわれ「阿知の潟(あちのかた)」と宇呼ばれるように。

天正12年 (1584年)には岡山城主・宇喜多秀家が老臣・岡豊前守(当時の庭瀬城主)命じて阿知の潟の干拓を計画。
これは、天正2〜3年(1975〜1976年)に勃発した備中兵乱後の取り決めによるものです。
宇喜多氏・毛利氏が備中の大部分を治めていた三村氏を討伐した後、備中国をおおむね高梁川を境にして東を宇喜多氏、西を毛利氏が治めるという取り決めをしました。
高梁川河口の東にあった倉敷は宇喜多氏の配下になったので宇喜多氏による干拓が行われたのです。

干拓事業では現在の酒津から鶴形山北麓付近まで20余町の堤防を築いて東高梁川の新たな川筋を策定。堤から東方一帯の干潟や葦原を聞墾しました。

現在の鶴形山周辺および向山にかけての地域、および周辺の新たな開墾地を含めての範囲を文禄4年 (1595年)に検地。倉敷村と命名。窪屋郡の一部になりました。
通称ではなく、正式な村名として倉敷を名乗ったのはこのときです。

この頃は干拓により陸続きとなりましたが、半島の状態でした。まだかろうじて海に面していました。
そのため港町としても機能していました。

また倉敷村の港が加子浦(かこうら、かこのうら=中世における加子浦とは軍船や輸送船の海上労働を担う港のこと)となっていました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には倉敷村から多くの水手(主に船の漕ぎ手)が出陣したという記録があります。

天領となり内陸の港に (江戸時代・現在の美観地区の町並誕生)

倉敷美観地区 アイビースクエア 代官所遺構

アイビースクエア内に残る江戸時代の倉敷代官所の遺構

江戸時代になると、倉敷村は江戸幕府直轄領天領)となります。

現在の高梁市にある備中松山城に備中代官として小堀氏が入城。
倉敷村の港は備中松山の外港となります。
再び倉敷は物資の集散地として繁栄しました。

元和元年(1615年)には備中松山城に因幡国鳥取城から大名・池田氏が入城。
大名領・備中松山藩となり、倉敷村も池田氏の所領になります。

この頃より周辺海域がさらに干拓されていき陸地化していきます。
そして倉敷は完全に内陸の地となりました。

寛永19年(1642年)に備中松山藩主が池田氏から水谷氏に代わると、倉敷村は同年に再び幕府領(天領)になります。村内に代官所が置かれ、備中国と周辺の各地にある天領を管轄しました。
これらの地域は「倉敷支配処(くらしきしはいしょ)」と呼びました。

倉敷美観地区 アイビースクエア 代官所遺構

アイビースクエア内に残る江戸時代の倉敷代官所の遺構(井戸)

代官所は現在の倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績)の場所です。
その他に代官所の付帯施設も周辺に造営されました。
鶴形山南方の現在美観地区となっている一帯の町並みの始まりはこの頃から。

鶴形山南麓地区は代官所の陣屋町として栄えます。

一方その西方のエリアは、倉敷川川港とした、内陸の港町として繁栄。

内陸化した倉敷川港は代官所が年貢米などの物資を輸送するために港を使用。
周辺の干拓による新開地で栽培された綿イグサの取引が盛んに行われました。
それらの物資輸送の基地として規模が拡大します。

のちに近現代まで倉敷周辺の備中国南部一帯は、繊維業やイグサ製品製造業が主産業として栄えます
これは上述の干拓地を中心とした綿・イグサ栽培によります。

そのため、綿やイグサで財をなした豪商が多く誕生
豪商が建てた海鼠壁(なまこかべ)の蔵のある屋敷が港周辺に建ち並びます。
これにより商家町としても繁栄。
豪商等の支援を得た阿智神社観龍寺などの鶴形山一帯の寺社は隆盛を極めます。
倉敷はそれら寺社の門前町の様相も呈します。

こうして現在「倉敷川畔(くらしきがわはん)」と呼ばれる倉敷の代表格となっている町並やその東側など一帯の町が誕生。

倉敷の町は江戸時代を通じて周辺地域の経済・行政・文化の中核となったのです。

倉敷美観地区 本町通り

本町通り(旧 早島道)

また倉敷の町を起点に東方向へ早島(早島町)に向かう街道「早島道(はやしまみち、早島側からは倉敷道と呼ばれる)」が通じていました。これは現在の鶴形山南麓の本町・東町を東西に走っている通り「本町通り」にあたります。
早島道は早島で岡山城下〜下津井湊〜讃岐国金刀比羅宮を結ぶ「金比羅往来(こんぴらおうらい)」に連絡しています。

倉敷えびす通り商店街

倉敷えびす通り商店街

さらには岡山城下(岡山市)と鴨方(浅口市鴨方町)を繋ぐ「鴨方往来(かもがたおうらい)」が、倉敷村北部を東西に通っていました。この街道へ連絡する道が倉敷の町から北方向へ通っていました。現在の「本通」「えびす通」にあたります。

倉敷美観地区 本通

本通

幕末になると慶応2年(1866年)4月には立石孫―郎の率いる奇兵隊に襲撃されて代官所などが焼失する騒ぎ(倉敷浅尾騒動)が発生しました。

近現代

倉敷美観地区 アイビースクエア

アイビースクエア (旧 クラボウ、旧 倉敷代官所)

大政奉還により、慶応4年2月24日に代官所を廃止。同年6月20日、幕府直轄領(天領)はすべて明治新政府直轄領に移されました。
府県藩制により倉敷代官所が管轄した倉敷支配処は倉敷県となります。

明治4年(1871年)7月の廃藩置県で倉敷県を経て、同年11月の統廃合により小田県(設置時から約1年間は深津県と呼称)の一部となります。
同8年12月10日に岡山県に統合。

明治21年3月、倉敷紡績株式会社(クラボウ)が倉敷代官所跡(現 アイビースクエア)に設立され、翌年10月から操業を開始。

明治22年6月1日、町村制の施行により、新たな倉敷村を設置。
同24年6月16日、町制を実施して倉敷町(旧)となりました。
同33年4月には郡の統廃合で窪屋・都宇2郡を併せて都窪郡を設置されます。
郡役所が倉敷町の現倉敷美観地区内に置かれました。

倉敷館

倉敷館 (倉敷町役場)

大正6年、美観地区の倉敷川畔に洋風木造建築の役場が設置されます。
今も観光案内所の「倉敷館」として現存しています。

昭和2年になると都窪郡倉敷町・万寿村・大高村が合併。新・倉敷町が誕生。
翌3年に市制施行して倉敷市(旧)に。
その後は周囲の町村を順次に編入合併していきます。

そして昭和42年に旧倉敷・玉島・児島の3市が合併。
新・倉敷市を新設し、現在に至ります。

町並み保存の歩み

倉敷美観地区 大原美術館

大原美術館

美観地区の町並保存は、倉敷紡績や倉敷絹織の社長を歴任した大原孫三郎によって始めらました。第2次世界大戦後は孫三郎の長男・大原總一郎を中心に、倉敷川畔地区の保存・整備活動が進められます。
總一郎は3棟の土蔵をもとに倉敷民芸館を設立。また浜蔵を利用して倉敷考古館も開きました。

倉敷市伝統美観保存地区 (美観地区)

倉敷美観地区 本通

倉敷市伝統美観保存地区(本通)の町並

前述の通り、1642年(寛永19年)に倉敷代官所が置かれて以来、倉敷川畔が備中一帯の物資輸送の中心となりました。

倉敷川沿岸に、問屋街としての町割り・商家・土蔵・荷揚げ場などの都市形態が成立。
その都市遺構が現在に多く残っていることは、歴史的・文化的・観光的な価値はきわめて高いとして、倉敷市は歴史的文化遺産として近代化による破壊から守り後世に継承するために、1968年(昭和43年)に「倉敷市伝統美観保存条例」を制定。翌年1月1日に施行しました。

その第1次として現在の倉敷川畔を指定。

その後指定地域は倉敷川上流域・鶴形山を含む一帯までとなります。

現在20.7 haが「倉敷市伝統美観保存地区」として指定。いわゆる「倉敷美観地区」はこれを中心とするエリアです。

その中で特に重要と認められる前神橋から上流周辺は「倉敷川畔特別美観地区」として指定されています。

倉敷川畔

倉敷美観地区 倉敷川畔

倉敷川畔(向市場)の町並

1979年(昭和54年)、国が選定する「重要伝統的建造物群保存地区」に倉敷川畔(くらしきがわはん)特別美観地区のほぼ全域が「倉敷川畔」の名称で選定ました。選定地区面積は約13.5ha。

倉敷川に沿って建ち並ぶ建物群の主屋は、本瓦葺・塗屋造・白壁を基調としています。
土蔵は本瓦葺・土蔵造・なまこ瓦張りの外壁が基調。

また一部の屋敷は桟瓦屋根、腰板張り、聖窓つきの土塀をめぐらしています。

こうした塗屋造の町屋、土蔵造の蔵、それに加えて大原美術館・旧町役場・中国銀行倉敷本町支店・倉紡記念館などの洋風建築とが一体となって調和。歴史的景観を形成しています。

特に倉敷民家の特徴である倉敷窓・倉敷格子が江戸時代のそのままの形で保存されていることは、倉敷の町屋の特徴を顕著に表していると評価されています。

倉敷川

倉敷美観地区

前述の通り倉敷は、周辺の土地の変化により、元は島嶼から半島、そして内陸の地へと移り変わっていきました。
しかし物資の集散地として港の機能が内陸化した後も必要でした。
そのために生まれたのが倉敷川です。

阿知の海、つまり現在の倉敷平野が干拓により陸地化すると、倉敷からもっとも近い海は現在の藤戸天城(ともに現 倉敷市藤戸町)でした。
その藤戸・天城から倉敷まで連絡する運河として、干拓の際に入り江を利用して整備されました。
つまり倉敷川は川の形をした細長い入り江だったのです。
当時は舟入川(ふないりがわ)、汐入川(しおいりがわ)などとも呼ばれたのもこのため。

またそのために倉敷川には水源・源流がありません。また、潮の満ち引きに合わせて水位も変化しました。

そして藤戸・天城は倉敷の外港としての機能を持つようになりました。

その後、干拓がさらに沖へと進められ、文政6年(1803年)に興除新田(現 岡山市南区興除地区)が完成。
藤戸・天城から海寄りの彦崎(現 岡山市南区、旧灘崎町)が海への出入り口が変化します。外港としての機能も彦崎に移り、倉敷川も彦崎まで延びました。

明治32年(1899年)から昭和25年(1950年)にかけて児島湾に堤防を築いて、大干拓事業が行われました。
このときの堤防により倉敷川は運河としての機能を喪失。
さらに水源がないために生活排水等の影響で水質が悪化していきます。

しかし倉敷川上流周辺の町並が保存整備されているのに合わせ、倉敷川も整備されました。
浚渫工事によるヘドロを除去。

高梁川の酒津樋門から流れる倉敷用水から倉敷川上流を暗渠で連絡しての取水。
中流域の河川敷整備、親水公園の設営。

現在は倉敷川の水質は改善しました。

 

 

 

参考資料

  •  巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社(1974年)
  •  『岡山県大百科事典』山陽新聞社(1979年)
  •  『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社(1981年)
  • 倉地克直・山本太郎・吉原睦『絵図で歩く倉敷のまち』吉備人出版(2011年)
  • 富阪晃『歴史散歩 岡山町並み紀行』山陽新聞社(1999年)
古い地名の由来は諸説あります。
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