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『穴門山神社(あなとやま じんじゃ)』は、高梁市の旧 川上郡川上町エリアにある古い神社だ。
いわゆる「式内社」と呼ばれる神社で、山奥深くにある。
穴門山神社の特徴は、以下のとおり。
- 『延喜式神名帳』に載る式内社「穴門山神社」に比定されている
- 社殿(本殿・拝殿)は、江戸時代初頭の寛永14年(1637年)に備中松山藩主・池田長常が再建し、岡山県指定重要文化財
- 社殿横にある神秘的な御神窟(鍾乳洞)
- 社伝によると、崇神天皇54年(紀元前44年ごろ)創建で、非常に古い歴史がある
- 山奥深くに鎮座しており、秘境感が高い
そんな川上町の古社・穴門山神社について紹介しよう。
もくじ
穴門山神社の情報
神社名 | 穴門山神社(あなとやま じんじゃ) |
---|---|
別名 | 名方浜宮(なかたはまのみや) 長田浜宮(ながたはまのみや) 赤浜宮(あかはまのみや) |
祭神 | 天照皇大神(アマテラス オオミカミ) 倉稲魂神(ウカノミタマノカミ) 穴門武姫命(アタト タケヒメノミコト) 足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト)=仲哀天皇 |
利益 | 五穀豊穣 交通安全 殖産興業 縁結び |
鎮座地 | 岡山県高梁市川上町高山市1035 |
連絡先 | 086-724-2179 |
駐車場 | 有り |
創建 | 崇神天皇54年(紀元前44年ごろ) |
旧社格 | 式内社 県社 |
祭礼・行事 | 弓初め祭(1月2日) 祈年祭(4月最初の巳の日) 夏越祭(土用丑の日) 例大祭(11月3日) |
文化財等 | 岡山県指定文化財(本殿・拝殿) 岡山県指定天然記念物(社叢) |
HP | 穴門山神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁 |
SNS | |
備考 |
穴門山神社とは?
穴門山神社は、かつての川上郡川上町、合併して高梁市川上町(高梁市南西部)にある。
川上町南部の井原市芳井町との境界に近い、山奥深くに鎮座している。
平安時代前期に編纂された、当時の有力な神社を載せている『延喜式 神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』に記載されている。
いわゆる式内社(しきないしゃ)と呼ばれる神社にあたる、古い歴史のある神社だ。
実は、式内社・穴門山神社に比定されている現代の神社はふたつある。
ひとつが、この川上町の穴門山神社。
もうひとつは、倉敷市北西部・真備町北部の総社市との境界の山上に鎮座する穴門山神社である。
両社の関係性は不詳である。
なお明治8年(1875年)7月30日、明治政府は当 穴門山神社と現 真備町にある穴門山神社の両方を式内社・穴門山神社と定める。
しかし同年8月25日に、政府は真備町にある穴門山神社は式内社から外した。
周囲の社叢(しゃそう)は、岡山県指定天然記念物。
438種の植物が生育し、種類の多いのが特徴。
本門そばの石段上にあるスギと境内の崖下にあるカツラは神木で、樹齢推定700年。
株の周囲は約8.93m、高さ約30mある。
門前・道のり・駐車場など
穴門山神社へは、神社の南側から行く道と、北側から行く道がある。
このうち北側から向かうのはおすすめしない。
道が非常に狭いだけでなく、整備がほとんどされておらず危険だからだ。
しかも、そんな道が延々と長く続いている。
そのため南側の高山市側から行く道がおすすめ。
ただし南側から行く道も、途中から狭い道が続く。
でも南側の道は定期的に車が通っているようで、最低限の整備はされている。
おそらく宮司など、神社関係者が通っているからだろう。
門前町・高山市の町並
穴門山神社へは県道77号線(美星高山市線)を通る。
東(高梁市街地方面)から来た場合、ツツジや雲海の名所として知られる弥高山(やたかやま)を過ぎて900mほどで、高山市の町並に着く。
現在はバイパスで新しい道ができているが、途中から旧道に入ると、突如として町並が現れる。
高山市は山の峰沿いに道が続き、その道沿いに町並が形成された。
高山市の町並からは、弥高山もよく見える。
なお、峰に沿って境界が引かれたので、現在でも高山市の町は場所によって高梁市川上町高山市と井原市芳井町東三原に分かれるという複雑な状態だ。
高山市を東西に走る峰沿いの道は、港町笠岡と中国山地にある町・東城(現 庄原市)を結ぶ東城往来という街道だった。
高山市は街道沿いの市場町として発展し、物資の集散地として栄えたのである。
そんな高山市の町並の西寄り、道の北側に石柱が建てられた脇道がある。
西側から来ても、すぐわかると思う。
ここが穴門山神社へ続く道のはじまりだ。
ここからこの道を北へ進んでいく。
約50m進むと、77号線のバイパスと交差する。
バイパスを通ってきたときは、ここから北に入ろう。
小さいが案内板が建っている。
約200mくらい、上り坂を直進しよう。
穴門山神社への道のり
県道77号線のバイパスから穴門山神社への道に入り、約200m北へ進むと鳥居が建っている。
鳥居の前からは、弥高山がよく見えた。
鳥居の横には、かつて穴門山神社を題材にした歌を記した碑がある。
古くから穴門山神社は、このあたりのシンボル的な存在だったのがわかる。
鳥居から先は、完全に山の中。
道は細くなっていく。
また、ここまでは道を登っていったが、鳥居を過ぎると一転、下り坂に。
穴門山神社に着くまで下り坂が続いていく。
鳥居から下り始めてすぐ、約50mほどの道沿いに小さな神社があった。
「須佐之男神社(すさのお じんじゃ)」とある。
ちなみに、この時点でスマートフォンは圏外に……
進んでいくと、さらに周囲は木々がうっそうと茂り、不気味な雰囲気。
途中から片側は斜面、反対側は崖で下に川が流れるという地形に。
しかもウネウネと曲がりながら下っていく。
めったに対向車は来ないが、一応ところどころ離合可能箇所はある。
しかし、場所によっては後退しないといけない。
運転に自信がないなら、鳥居から少し下ったところにあった須佐之男神社のところに車を停め、歩いて行く手もある。
鳥居より約1.2km下ると、道の脇が広くなったところがある。
ここが駐車スペースだ。
駐車スペースから少し歩いて下ると、道の進行方向左に小さな橋がある。
ここ渡ると穴門山神社だ。
穴門山神社の見どころ
参道・随神門
小さな橋を渡った先に随神門が見え、その背後の斜面の上のほうに社殿があり、下から木々の間に社殿やずしん門の姿が見える。
上記は道から見た随神門。
小さな橋を渡って進行方向左のほうには、随神門が見える。
橋を渡り、随神門とは反対方向=進行方向右には小さな社があった。
社の詳細は不明。
近くで見ると、かなり大きな随神門。
歴史もありそうな雰囲気だ。
現在の随神門は、明治維新直前の慶応4年(1868年)に再建されたもの。
昭和48年(1973年)11月には、屋根の葺き替えがおこなわれているようだ。
随神門をくぐって見上げると、上のほうに社殿や社務所が見える。
けっこう高い場所で、急峻なのがわかる。
随神門をくぐると、道がつづら折りで上へと続いていく。
参道は途中から石段に。
途中振り返って下を見ると、高さと角度が旧なのがよくわかる。
つづら折りの参道を登っていき、社殿に到着。
社殿など
社殿地は山の斜面の中腹を広げたような場所で、横に細長い敷地になっている。
入口に門があり、門をくぐると左手に社務所。
普段は社務所は無人のようなので、御朱印等の用事がある場合は事前に宮司の自宅に電話しておく必要があるだろう。
宮司はおそらく離れた場所に住んでいると思われる。
そして社務所の向こう、門から見て左前方に大きな社殿が見える。
手前の大きな建物が拝殿。
拝殿の後ろには本殿がある。
非常に大きく立派で、歴史を感じさせる拝殿である。
細やかな装飾にも注目。
拝殿の後にある本殿も、大きく歴史がありそうだ。
拝殿と本殿は江戸時代初頭の寛永9年(1632年)に焼失したものを、当時の備中松山藩主・池田長常が寛永14年(1637年)に再建したと棟礼に記されている。
大変古い歴史ある建物である。
本殿・拝殿ともに、岡山県指定重要文化財になっている。
また、本殿・拝殿は「権現造り」と呼ばれる建築様式。
なかでも本殿の側面側は懸魚、虹梁、支輪、斗きょう組(斗組)で装飾されていて、岡山県周辺ではあまりないめずらしいものらしい。
拝殿前にある狛犬。
向かって左側。
向かって右側にある狛犬は、残念ながら破損しているもよう。
門から見て社殿の奥側、つまり社殿に向かって右方向にはさらに大きめの社務所がある。
この社務所と拝殿は、渡り廊下でつながっている。
なお、門のところにあった小さな社務所も、拝殿と渡り廊下でつながっていた。
本殿の向かって右側には、小さな境内社が4社が並ぶ。
境内社の詳細は不明。
御神窟(鍾乳洞)
本殿のすぐ左手にある岩壁に小さな穴がある。
そこは御神窟(ごしんくつ)と呼ばれる、小さな鍾乳洞だ。
御神窟の前には小さな祠(ほこら)があり、入口は注連縄(しめなわ)で結界が張られていて、それ以上は中に入れない。
御神窟の手前にある小さな祠。
御神靴の中にも小さな祠が見える。
神秘的な雰囲気だ。
おしらく御神窟を祀っている祠だろう。
中には入れないため、入口からズームで撮影。
祠の右奥の壁には、何か祀られている。
御神窟の長さは約100mあるらしい。
途中で大きく右方向にカーブしているのがわかる。
そしてカーブしている場所に、道を塞ぐように大きな岩がある。
その岩には、注連縄がされていた。
社殿の裏は石灰岩の岩壁がそびえている。
穴門山神社がある周囲は同じような地質のようで、観光地化されていない小さな鍾乳洞も多い。
穴門山神社は、もともとこの鍾乳洞を祀った神社だとうする説もあるようだ。
なお近くの福山市山野町には、鍾乳洞を祀った古社で備後国の式内社・多祁伊奈太岐佐耶布都神社 (たけのいなたきさやふつ じんじゃ)、通称・岩穴宮(岩屋権現)もある。
【多祁伊奈太岐佐耶布都神社】山奥の洞穴にある秘境の原始的な神社(福山市山野)
由緒・祭神
縁起・由緒
伝承によると、穴門山神社は崇神天皇54年(紀元前44年ごろ)とされている。
平安時代前期の延喜・延長のころ、穴門山神社の鎮座地は備中国下道郡長田山とあり、穴門山神社は名方浜宮(なかたはまのみや)と呼ばれていた。
古書『倭姫世記』では、以下のとおり記されている。
豐鋤入姫命(トヨスケイリヒメノミコト)は、崇神天皇から天照大神(アマテラス オオミカミ)のご神体の御鏡を祀る場所を探す命を受けた。
紀伊国の奈久佐浜宮から備中国の名方浜宮(現 穴門山神社)へ奉遷し、4年間奉斎した。
江戸時代初期までは、境内に金敷寺という神宮寺(神社を管理する寺)があり、穴門山神社を管理していた。
寛永9年(1632年)秋、社殿が焼失。
寛永14年(1637年)に、当地を治めていた備中松山藩の藩主・池田出雲守長常が、社殿を再建・寄進した。
祭神
祭神は、天照大神、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、吉備武彦(キビ タケヒコ)の娘で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃である穴門武姫命(アタト タケヒメノミコト)、日本武尊の第2皇子・足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト)の四柱。
神社名の由来
穴門山神社とうい社名の由来は諸説あるが、おもに2説が有力だ。
ひとつの説は、鎮座地を含む川上町高山市や旧 備中町あたりは、古くは下道郡(しもつみちのこおり)穴田郷(あなたごう)と呼ばれており「穴田郷の山奥にある神社」という意味の神社名という説。
もうひとつの説は、境内にある鍾乳洞を祭っているので、穴門とは鍾乳洞を意味しているという説だ。
地名の「タ」は、土地や地域を意味する「ト(処)」が変化していることも多いので、アナタとアナトは同じ可能性がある。
実際、古い資料では「穴戸郷」などと記されているものもあるとのこと。
そのことから、穴門山神社は「穴田(穴戸)という地域の山奥にある神社」を意味するという説が濃厚ではなかろうか。
穴門山神社のポイント
- 『延喜式神名帳』に載る式内社「穴門山神社」に比定されている
- 社殿(本殿・拝殿)は、江戸時代初頭の寛永14年(1637年)に備中松山藩主・池田長常が再建し、岡山県指定重要文化財
- 社殿横にある神秘的な御神窟(鍾乳洞)
- 社伝によると、崇神天皇54年(紀元前44年ごろ)創建で、非常に古い歴史がある
- 山奥深くに鎮座しており、秘境感が高い
穴門山神社の情報
神社名 | 穴門山神社(あなとやま じんじゃ) |
---|---|
別名 | 名方浜宮(なかたはまのみや) 長田浜宮(ながたはまのみや) 赤浜宮(あかはまのみや) |
祭神 | 天照皇大神(アマテラス オオミカミ) 倉稲魂神(ウカノミタマノカミ) 穴門武姫命(アタト タケヒメノミコト) 足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト)=仲哀天皇 |
利益 | 五穀豊穣 交通安全 殖産興業 縁結び |
鎮座地 | 岡山県高梁市川上町高山市1035 |
連絡先 | 086-724-2179 |
駐車場 | 有り |
創建 | 崇神天皇54年(紀元前44年ごろ) |
旧社格 | 式内社 県社 |
祭礼・行事 | 弓初め祭(1月2日) 祈年祭(4月最初の巳の日) 夏越祭(土用丑の日) 例大祭(11月3日) |
文化財等 | 岡山県指定文化財(本殿・拝殿) 岡山県指定天然記念物(社叢) |
HP | 穴門山神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁 |
SNS | |
備考 |
- 穴門山神社 現地案内板
- 穴門山神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁 公式サイト
- 『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』皇學館大学 出版部
- 『岡山県大百科事典 上』山陽新聞社