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田町(たまち)は岡山市北区の町丁です。一丁目と二丁目があります。 岡山城下時代は寺院 蓮昌寺(れんしょうじ)と中級武士の侍屋敷が立地していた町でした。
南部はその南にある中央町などとともに市内有数の歓楽街を形成しています。
あくまで当サイトでの見解です。
田町はこんなところ
田町は岡山中心市街地のほぼ中央に位置しています。
道路と西川に区画された南北にやや長い長方形のエリアです。
西端を南北に西川が貫流。 西隣の柳町との境界となっています。
東端は南北に幹線道路の柳川筋が通過。 東の中山下や表町との境界となります。
また柳川筋には路面電車が通っていて、田町電停が設置されています。
北端は東西に県庁通りが通過しています。 北側の平和町・磨屋町との境界となっています。
中部を東西にあくら通りが通過。 田町一丁目と二丁目の境界です。
南端は東西に新西大寺町通りから延びる通りが通っています。 この道が南隣の中央町との境界となります。
この田町南部から中央町、柳町の一部の界隈は岡山市街を代表する歓楽街。
スナック、キャバクラ、クラブ、性風俗店などが集まっています。
北寄りの県庁通り周辺は若者向けの飲食店や服屋などが多く、雰囲気も異なっています。
また古刹・蓮昌寺もあります。
元は西田町(にし たまち)・東田町(ひがし たまち)・下田町(しも たまち)・淡路町(あわじちょう)・蓮昌寺堀端町(れんしょうじ ほりばたちょう)・仁王町(におうちょう)・常盤町(ときわちょう)に分かれていました。
しかし昭和40年の町区改訂で田町一丁目・二丁目に統合されています(一部は中央町に区分に)。
昭和20年の岡山大空襲では田町周辺がもっとも被害が大きく、蓮昌寺などの寺院もほぼ全焼しました。
地名の由来
農地を城下町の一部として整備
戦国時代に宇喜多直家が岡山城下を建設したときは、田町周辺はまだ城下外で農地でした。
しかし旭川西岸の現 出石町を城下に組み込むために、その当時そこへあった御野郡(みののこおり)上出石(かみいづし)村・下出石(しもいづし)村の農民を移住させます。
上出石村は現 野田屋町あたりに、下出石村は現在の田町南部(二丁目)一帯に移住しました。
同時に村名も移ったので、当時の田町は新しい下出石村を名乗ることとなります。
小早川秀秋が岡山城主となると外堀を造成します。そして外堀の西、現 田町の地に、現在の中区森下町から蓮昌寺(れんしょうじ)を移して広い寺屋敷を設けました。
当地に移住させた下出石村は、当地の西川の西の地、現在の下石井や幸町・錦町・柳川町あたりに再移転させました。
岡山藩主が池田氏に代わり、池田忠雄の時代に前任地・淡路から連れてきた家臣を現 田町の北西辺りに住させるために城下の一部に取り込んで整備。 侍町をなします。
そして出身地名から淡路町と称しました。
その後町割は拡大、農地から町に造成されたことから「田町」と総称されるようになりました。
さらに細分化されて淡路町の他に西田町・東田町・下田町・常盤町・仁王町、外堀(おおむね現 柳川筋)沿いに蓮昌寺堀端(れんしょうじ ほりばた)町となります。
仁王町は最初は仁王堂町と呼ばれていて、蓮昌寺が仁王門を設けたことに由来します。
まとめ
現在は地元の住民からは歓楽街の一角というイメージが強いですが、古くから続く蓮昌寺が現存するなど歴史も垣間見ることが出来ます。
複数の町割に因んだ旧町名が「田町」の町名に統合されてしまったのは残念です。
せめて通りの名前などでその名残を残すなどして欲しいです。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 岡山大学付属図書館 『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
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