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出石町(いずしちよう)は岡山市北区にある町丁です。1丁目と2丁目があります。
古代には『和名類聚抄』記載の備前国御野郡(みののこおり)出石郷(いづしごう)の遺称地。近世は岡山城下の町人町でした。
戦災を免れた数少ない岡山城下の地域で、近年は残された古い町並みを生かしていこうという動きで注目されました。
あくまで当サイトでの見解です。
出石町とはこんなところ
旭川の西岸に位置します。 岡山神社の北手から北へつづいた堤防上の南北に長い地区。
江戸時代、岡山城下町のときには北から上出石町・中出石町・下出石町の3町に分かれていました。
昭和39年7月20日に町区改訂が行われました。
新鶴見橋西詰の岡山県道402号を境にして南を1丁目、北を2丁目に。 上出石町の西部の一部は番町の一部となったのです。
かつての出石町は下記の通りです。
上出石町は現在の2丁目と1丁目北部の一部、および番町の一部に相当。
中出石町は1丁目のおおむね後楽園通り以北。
下出石町がおおむね後楽園通り以南でした。
地名の由来
古代郷名を継承
もともと当地を含む一帯には御野郡(みののこおり)上出石村・下出石村という農村がありました。
天正期、宇喜多直家により岡山城が築城されます。
そして城下町整備の際に、上出石村・下出石村を移転させます。その跡地に町家を造成。
旧村名をそのまま新町名としたのです。
また城下町造成以前の上下出石村は、古代の『和名類聚抄』に載る備前国御野郡の出石郷(いづしごう)の名を継承したものといわれます。
昭和39年に町区改正があり、上出石町・中出石町・下出石町がひとつの出石町に統合されたものの出石の名称は残されました。
そのため、当地の「出石」の名は古代から続く古い地名であり、城下町造成時から数えても400年以上続く歴史ある地名なのです。
出石郷の由来は平地の中にある独立丘陵か、デルタ地帯か
では古代の「出石(いづし)」の郷名の由来はなんでしょうか。
出石の地名は各地にあります。 有名なところでは但馬国。 他に美濃国にもあります。
当サイトでは古い地名は漢字通りの意味ではない可能性がある考えています。
この場合の「出(いづ)」は「厳(いつ)」の当て字の場合と、漢字通りの意味の「出(いづ)」の可能性があります。
「石」の場合は「磯」の意味と、漢字の意味のまま「石・岩」、転じて山の意味もあるようです。地形的に後者の石・岩・山の意味の可能性が高そうです。
但馬・美濃の出石の場合は前者「厳(いつ)」の意味のようです。この場合は「険しい」の意味。また「出」の意味だとしても「突き出ている意味で同じく「険しい」という意味となります。
つまり但馬や美濃の出石は「険しい山」を意味していると考えられるのです。
ところが当地、備前国の出石は後述の通り、旭川河口のデルタ地帯。
とても険しい山がある地域ではありません。
では当地の地形をみて考えてみましょう。
デルタという平地ですが、当地には岡山城天守がある「岡山」と「石山」「天神山」という3つの丘陵が連なっています。
そう、これこそがこの地の一番の特徴的地形です。
つまり出石とは「突き出た山」の意味。デルタという平地の中でコンモリとした「岡山」「石山」「天神山」という独立丘陵を意味しているのです!
もう一つの可能性として、「河川が運んできた土砂が堆積した地=河口のデルタ地帯」の意味が考えられます。
「出」は、河川が山から運んできて河口まで出てきたということ。
「石」は土砂。
これで河口に出てきた土砂=デルタ地帯(三角州)。
これは出雲の由来の説でお話ししたのと同じような感じです。
歴史
古代には当時の旭川河口部(現 北区 柏付近)で複数に分岐した河道により複数のデルタ(三角州)が形成されていました。
当地は岡山・石山・天神山の3つの丘を中心としたデルタの一部でした。
また『和名類聚抄』に載る備前国御野郡の出石郷の一部。
中世には備前国内の有力荘園・鹿田荘(しかだしょう)の領地であったといわれます。
慶長2年に宇喜多秀家が石山にあった石山城を取り込む形で岡山城を築城。
その後、石山城時代の城下を改良しつつ新城下を整備。
元々は前述の通り岡山城下整備以前より当地に御野郡上出石村・下出石村がありました。
また当時は現在のように旭川に面しておらず、のちの宇喜多秀家の城下町整備のときの旭川本流の流路変更で旭川に沿岸となります。
天正元年に宇喜多直家が石山城に入り城下町を整備しはじめたとき、南部の下出石村を後の仁王町(現 田町2丁目〜中央町)の位置に移し、跡を町家にして下出石町と称します。そこには商人が住んでいました。主に木挽職人が集住して木挽町をつくっていました。
下出石町の北は上出石村でしたが、直家はこれを現在の野田屋町の位置へ移し、その跡を町家にして上出石町としました。
その後、寛永から正保の時代になり上出石町北部の堤防上に新たに町家ができます。
それまでの上出石町を中出石町へ改め、北側の新たな町を上出石町と命名しました。
江戸時代、岡山城下から北上して津山城下を結ぶ街道の津山往来が出石町を縦貫していました。
そのため、街道沿線には商人が居住していたのです。
『下出石町惣絵図』が残されており、それによれば下出石町の町の入口には櫓門と番所が設けられていました。また旭川の川端は河岸となっていました。
宝永4年には、中出石町に後楽園への仮橋が架けられた記録が残っています。後に同じ場所に朝日橋が架けらています。
なお移転された上出石村・下出石村とも、移転後も同村名を残していました。
さらに両村とも後の時代に再び移転させられています。ともに西川の西部。
上出石村は現在の岡山駅東側に(駅前町 ・本町など)、下出石村は現在の岡山駅南側(下石井・幸町・錦町・柳町など)にあたり、その位置で明治へ至りました。
なお、明治以降に上出石村・下出石村は石井村を経て岡山市へ編入しますが、岡山市編入まではその名を大字としてとどめていました。
しかし編入後に当出石町との混同を避け、旧石井村に由来して上石井・下石井へ改称(その後、上石井は町名の分割・改称で消滅)。
そのため出石町のみが古代出石郷の遺称地となりました。
昭和20年6月の岡山大空襲にみまわれたが、住民による旭川からのバケツリレーにより焼夷弾による火災を防止。当地内の多くが戦災を免れました。
そのため、現在も古い風情を残した岡山市中心市街の中でも数少ない地域となっています。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 岡山大学付属図書館 『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
- 楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』東京堂出版
- 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
あくまで当サイトでの見解です。