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周防国(すおうのくに)は現在の山口県東部に相当する旧国(令制国)です。 江戸時代には別名 防州(ぼうしゅう)とも呼ばれていました。
古くは周芳との表記もありました。
旧仮名遣いでは「すはう」。古くは「すは」とも。
あくまで当サイトでの見解です。
周防国とは

柳井の町並
山口県の東半部で広島県旧安芸国地方に隣接しています。
西隣はは同じ山口県で同県西半部にあたる長門国。
長門は日本海と瀬戸内海に面していますが、周防は南の瀬戸内海のみに面しています。
最東端の地は現 玖珂郡和木町で、広島県(安芸)側の大竹市と隣接。
小瀬川が国境・県境となっています。
『和名類聚抄』では周防国内の郡として大島(おおしま)・玖珂(くが)・熊毛(くまげ)・都濃(つの)・佐波(さば)・吉敷(よしき)郡の6郡を記載。
玖珂郡は養老5年(721年)に熊毛郡から分立したもの。
国域は全体的に山がち。その中で山口盆地や島田川上流の盆地、現在の岩国・柳井・光・下松・周南・防府などの各市街地となっている、主要河川の河口付近などに平地が見られました。
それに加えて周防大島をはじめとする瀬戸内海の島嶼も国内にはありました。
しかし他の瀬戸内海沿岸の国々に比べると島嶼は少ない方になります。
律令体制下、国府はその名の通り現 防府市内に設置されました。
中世になると山口盆地を拠点にした大内氏により「大内文化」とも呼ばれる独特の文化が根付きました。
通称「西京(にしのきょう)」と呼ばれ、現在も山口市街は小京都と呼ばれています。
江戸時代後半になると長門・周防の大部分を治めていた萩藩(長州藩)が拠点を長門国の萩城から周防国の山口城に移します。現在の山口県庁の地です。
現在の周防国域で著名なものとして、岩国市の錦帯橋、柳井の町並、防府の防府天満宮、山口の瑠璃光寺や山口藩庁跡、湯田温泉などがあります。
地名の由来
熊毛郡に同名郷あり。現在の光市小周防あたりが地名由来地。
周防の地名の由来はなんなのでしょうか。
『和名類聚抄』では周防国内には熊毛郡に同名の「周防郷」があります。
当サイトでは古い広域の地名は国内の一地域の地名が由来地と考えております。
ですので周防国の地名発祥地は熊毛郡周防郷であると推定できます。
熊毛郡周防郷ですがかつて熊毛郡だった地域をみてみますと、現 光市の島田川中流に「小周防(こすおう)」という大字があります。
ちょうど山陽自動車道 熊毛インターチェンジのすぐ南の方です。
これは周防国が「大」とみて、それに対応して「小」を付けたものといわれています。
つまり光市小周防を中心とした地域が熊毛郡周防郷で、小周防はその遺称地なのです。
周防は盆地を形容した「窄む」が由来

岩国・錦帯橋
ではその周防郷の地名の由来が何なのかが問題です。
それはずばり「窄む(すぼむ)」という言葉です。
光市小周防周辺は島田川中流に中盆地を形成しています。
島田川沿いの山が一時的に広がり、そして再び狭まっていくことで盆地が形成。
この地形を「窄む(すぼむ)」と表現したのです。
つまり盆地=「スボム」→「スオウ(スハウ)」と変化したといえるのです。
なお他に同じ盆地を意味する説として「狭まる(せばまる)」が変化したという説もあり得ると思います。
ちなみに前述の通り律令体制下で国府は現 防府市内に置かれました。
これは時代が変遷し、地名由来地である周防郷周辺よりいろいろと都合が良いエリアを選んだ結果、国の中枢地域が移動したのではないかと推測できます。
まとめ
周防国の地名は現在の光市小周防周辺(かつての熊毛郡周防郷)が発祥地。
地名の由来は盆地の地形を「窄む(すぼむ)」形容し、それが変化したもの。
参考資料
- 『古代地名語源辞典』東京堂出版
- 『日本歴史地名体系 山口県の地名』平凡社
- 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
あくまで当サイトでの見解です。