酒津(倉敷市) 〜 水郷の町は昔の郡境に近い港だった「境の津」が地名由来!

酒津(さかづ)は倉敷市の市街地北部に位置する大字です。

酒津公園と酒津樋門で有名で水郷として知られます。

第1回岡山ブログカレッジも開かれたこの酒津の地をご紹介します。

古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。

酒津とは

酒津は倉敷市街北に位置します。
高梁川が倉敷市に流入し、旧真備町エリアから倉敷エリアに流れてくる最初の地区になります。

酒津は高梁川の東西両岸に範囲が広がります。 しかし西岸側は現在無人の地区に。
東岸側は高梁川の樋門配水池があります。そこは市内各地へ流れる灌漑用水の起点。

そしてその取水地は「酒津公園」として整備。 市民の憩いの場に。
春には岡山県内屈指の桜の名所のひとつとして大勢の人でにぎわいます。

大正時代に東岸にクラレ(旧 倉敷絹織)が設立されました。
現在は移転しており、跡地の一部は大規模商業施設「イオンモール倉敷」が隣接の水江地区にまたがって立地。
酒津は一気に郊外型の商業地域の雄となりました。

酒津の民芸品として「酒津焼」が知られます。
明治初年に始まった阿知焼が、同9年に酒津の八幡山(兜山)麓に窯を移しました。
その後、高梁川東岸へ移転し現在に至っています。

JR伯備線北部の青江山にはクラレの研究所が立地。

また洋画家 児島虎次郎の旧宅もあります。

地名の由来

桜花 (倉敷市酒津)

古民家カフェ 桜花

「坂にある港」ではない

古くは「坂津」との表記も見られました。
そのため傾斜地=山麓にある津(港)が由来とも考えられます。

しかし当地は古い時代は高梁川の河口部に位置していたため、高梁川の運ぶ土砂の作用により、現在の酒津地区の山麓から海へ向かって陸地がある程度広がっていたと推定できます。

そのため山麓に港は作れなかったのではないかと思います。港があった場所は平地になっていた可能性が高いです。

 窪屋・浅口両郡の境界に近い港が由来か

では酒津の地名由来はなんでしょうか?
周辺の地域もあわせてみてみるとヒントがみえてきます。

詳細は後述しますが、高梁川は古代において酒津北端にある八幡山の北側で東西に分かれていました。

そしてそれぞれ八幡山の東側と西側を流れて海に出ていたのです。
東側の流れは現在の高梁川の流路に近いです。
西側の流れは、現在の柳井原貯水池にあたります。

さらに西側の流れは、酒津の属していた窪屋郡(くぼやのこおり)と同郡西部にあった浅口郡(あさくちのこおり)の境界だったのです。

これらのことから、酒津は、窪屋郡と浅口郡の境界に程近い所にある港(津)という意味で「境の津」。

そしてそれが変化して「さかづ」となり、「坂津」「酒津」の字があてられたと考えられるのです。

歴史

酒津公園

酒津公園

古代〜中世

古代において酒津北部の八幡山の北側で高梁川が東西に分岐
八幡山の東側と西側をそれぞれ流れて、当時まだ「阿知の海」という海域だった現 倉敷市街に流れ出ていました。

東流現在の高梁川の流路とJR伯備線、西流は現在の柳井原貯水池に相当します。
高梁川の流した土砂の堆積作用で、東西の河口の近くの山麓は南へ向かって平地が幾分か広がっていたと予測されます。

現在の高梁川の川底から遺跡が見つかっており(酒津遺跡)、弥生時代後期の土器(酒津式土器)も発見されています。

そして八幡山から南へ延びていた平地に窪屋郡大市郷(おおいちごう)があったとされ、酒津は大市郷の範囲内であったと思われます。

前述の通り、当時の高梁川西流が窪屋郡と浅口郡の境界でした。

現在の酒津の範囲の内、おおむね伯備線より北にあるエリアはまだ当時は酒津の一部でなかったとされます。

中世には現在の酒津北部とにある青江山の山麓一帯を拠点とする刀工流派「備中青江」が隆盛となります。酒津にも刀工の拠点があったとも。

そして酒津にあった港から備中青江刀が各地へ運ばれていきました。

近世

戦国時代に宇喜多秀家による干拓を皮切りに、倉敷平野は江戸時代にかけて干拓を繰り返していき、徐々に南へ平地を広げていきます。

これにより江戸時代が終わる頃には、八幡山北側分岐の東高梁川は現在のおおむね八間川用水の流れに近い位置を南流。現在の倉敷市浦田あたりで海に出ていました。

そして八幡山北側分岐の西高梁川は現在の柳井原貯水池以南は、現在の高梁川に近い流路で南流。連島西側と乙島の間で海に出るようになりました。

また江戸時代は酒津は窪屋郡酒津村として備中松山藩領。枝村として現 JR伯備線より北側のエリアが作られています(木屋村など)。

その後江戸期の領地は幕府直轄(倉敷支配所)、丹波亀山藩領、駿河田中藩領、再び幕府直轄で倉敷支配所と移り変わりました。

近現代

明治時代初期に伯備線北側エリアなどの各枝村が酒津村に編入されます。
明治22年6月1日の町村制施行を受けて窪屋郡酒津・水江・中島の各村が合併して同郡中州村を設置します。 のちに郡合併により都窪郡に属します。

明治40年に内務省直轄工事として高梁川の大規模な改修工事が開始されます。
この工事の結果、八幡山西側の西高梁川流路が廃川。 現在の柳井側貯水池に変わります。

また東高梁川の流路は、現在の酒津公園付近で西へ新河道を作り二股に分岐させました。
新たに作られた西への河道は酒津と西隣の水江地区の中央を西南方向へぶった切り、柳井原貯水池以南の西高梁川へ合流させました。

これにより現在の高梁川の流路が西高梁川となります。

大正7年には高梁川流路の一本化工事が開始されます。
現在の酒津公園から分岐していた東高梁川が廃川。酒津公園分岐の西高梁川が現在のように高梁川の本流になります。

東高梁川の廃川地には酒津公園が整備されました。また昭和2年にクラレ(旧 倉敷絹織)が操業開始しました。

昭和15年12月 1日、町制施行で中洲町を経て同19年1月 1日に旧 倉敷市に編入合併しました。

参考資料

  •  『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
  •  『岡山県大百科事典』山陽新聞社
  •  巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
古い地名の由来は諸説あります。
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