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『安仁神社 (あに じんじゃ)』は岡山県の県中南部にあたる県庁所在地・岡山市に鎮座する神社だ。
岡山市東区の西大寺エリア(旧 西大寺市)にあり、岡山市の最南東の地域にあたる。
観光スポットの牛窓にも近い、
安仁神社は古い歴史があって、古代には備前国内でも有力な神社だった。
安仁神社は、平安時代前期に編纂された全国の有力な神社を記載した書物『延喜式 神名帳 (えんぎしき じんみょうちょう)』に載る式内社(しきないしゃ)と呼ばれる由緒ある神社。
さらに、古代の有力な神社の格式である名神大社(みょうじん たいしゃ)でもある。
名神大社だったのは備前国内で安仁神社だけだ。
安仁神社は、備前国に3社ある一宮(いちのみや)とされる神社のひとつ。
しかし、備前国の二宮(にのみや)とされることもあり、詳細を知らなければ混乱してしまうだろう。
そこで、安仁神社について境内のようすや祭神、御利益、鎮座地、歴史などについてまとめてみた。
安仁神社のポイントは以下の通りだ。
- 一宮と伝わるが、それを裏付ける史料はなく、二宮という史料はある
- 古代にあった社格制度で備前国唯一の「名神大社(みょうじんたいしゃ)」だった
- 名神大社が一宮と誤って伝承した可能性が考えられる
- 江戸時代までは祭神について諸説あったので、祭神を「安仁神」としたことも
- 明治時代に祭神不明とし、大正時代に再び安仁神、昭和の戦後に安仁=兄という説をとり、神武天皇の兄を祭神と決定
歴史ある安仁神社について紹介したい。
もくじ
安仁神社の概要
神社名 | 安仁神社 (あに じんじゃ) |
---|---|
別名 | 久方宮 (ひさかたのみや) |
祭神 | 五瀬命 (イツセノミコト) ※主祭神 稲氷命 (イナイノミコト) 三毛沼命(ミケヌノミコト)過去には安仁神(アニノカミ) |
利益 | 国土安全、国家安泰、五穀豊穣、海上安全、交通安全など |
鎮座地 | 岡山県岡山市東区西大寺一宮895 |
連絡先 | 086-946-1453 |
駐車場 | 100台程度 |
創建 | 不詳 |
旧社格 | 式内社(名神大社) 備前国 二宮 国幣中社 |
例祭 | 建国禊 (2月11日) 茅の輪神事 (7月11日) 秋祭り(10月 第1日曜) |
HP | 安仁神社 |
備考 | 以前は「安仁神」を祭神としたり、さまざまな祭神の説があった。現在の祭神と定められたのは昭和戦後時代。 |
鎮座地について
安仁神社が鎮座しているのは、岡山市東区の西大寺エリア。
西大寺エリアを南北に流れる岡山三大河川のひとつ・吉井川の東側になる。
エリアの南東に位置し、瀬戸内市邑久町や牛窓町との境界に近い。
岡山市の南東の端に近い場所だ。
宮城山(みやしろやま)・別名を鶴山という標高約80mの山の北の中腹に鎮座している。
昔は宮城山の山上に鎮座していたという。
江戸時代に岡山藩主の祈願所となったことで、現在地に遷座した。
安仁神社は、JR岡山駅からは東へ約17km、JR西大寺駅からは南東へ約7kmになる。
安仁神社の参道のようす
安仁神社の参道口は、岡山県道235号沿いにある。
県道は東西に走っていて、そこから南へ向かって一直線に参道がのびている。
県道沿いには、大きな注連鳥居があるので、目印になる。
参道口には、道標もあった。
参道を南へ約300m直進すると、駐車場に出る。
上記画像は、駐車場にある看板。
安仁神社は宮城山という山の中腹に鎮座している。
駐車場は、宮城山の北のふもとにあって、上記画像は宮城山へと登っていくこところにある社号標。
社殿へ向かう山への登り口にある狛犬。
備前焼製だ。
山道の途中には鳥居がある。
歌碑があったが、内容はよくわからない。
安仁神社の社殿などのようす
山道の参道を約150m登ると、手水舎と随神門にたどり着く。
ここまでくれば、社殿はもう目の前。
随神門。
ここをくぐると石段があり、社殿が見える。
随神門の向かって左側には参集殿。
随神門をくぐったところで、石段の上に狛犬と注連鳥居が見えてくる。
石段を上ったところにある狛犬。
石段をのぼってすぐ左側には、新・社務所。
新 社務所の奥には、旧 社務所。
石段の上にも手水舎があった。
絵馬掛け所。
石段を上って直進した先に、立派な拝殿が視界に飛び込んでくる。
けっこう大きな拝殿だ。
現在の拝殿は、明治18年(1885年)に建てられたそうだ。
拝殿を横側から。
拝殿が後ろに飛び出た構造になっている。
一見すると、この部分が本殿になっているのかと思うが、じつは、さらにこの後ろに本殿があるのだ。
拝殿のうしろにそびえる本殿。
かなり大きな本殿だ。
本殿を横側から。
本殿も拝殿とともに明治18年(1885年)の建築。
拝殿の向かって右の方にある宝物庫。
安仁神社の境内社
安仁神社の社殿のまわりには、たくさんの小さな境内社が祭られていた。
順に紹介したい。
荒神社。
左補神社。
6つの祠を併せたような独特な祠。
同じ形式の祠で、右補神社もあった。
稲荷神社。
安仁神社の社殿のまわりには、境内社のほかにも、遙拝所も多かった。
上記は、近くにある綱掛石神社の遙拝所。
綱掛石神社は、神武天皇がこの地を訪れたときに、綱をかけた伝承がある。
近くにある境外社・天神社の遙拝所。
同じく境外社・伊登美宮の遙拝所。
近くにある境外社・伊津岐神社の遙拝所。
出雲大社の遙拝所。
伊勢神宮の遙拝所。
水神が祭られていた。
水神の御神水。
近くにある滝神社の遙拝所。
宮城山
上記は、安仁神社が鎮座する宮城山を遠くから見たところ。
場所によっては、社殿が少し見える。
安仁神社の行事
安仁神社では、年間にいろいろな行事・祭事がおこなわれるが、もっとも有名なのは「海中禊ぎ(かいちゅうみそぎ)」だ。
海中禊ぎ
海中禊ぎは、毎年2月11日におこなわれる。
近くの宝伝海岸(ほうでん かいがん)に、宮司とともに神木(しんぎ)を持った大勢の男女が海に入って身を清める行事。
安仁神社の由緒や祭神ついて
安仁神社の由緒など
安仁神社の創立年月日は、不詳である。
平安時代前期の歴史書『続日本後紀(しょく にほん こうき)』では、承和8年(841年)2月8日の条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるのが初見となる。
平安時代前期に有力な神社を記載した『延喜式 神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』には備前国唯一の名神大社として記載されている。
また、古くは「兄神社」や「久方宮(ひさかたのみや)」とも称していたとも。
現在の社殿は、標高80mの宮城山(みやしろやま、別名 鶴山)の北の中腹に鎮座している。
しかし、もともとは宮城山の頂上付近に社殿があった。
その後いつの時代か不明だが、麓の「尾ノ上」という地にうつる。
江戸時代に安仁神社が備前岡山藩主の祈願所となると、宝永2年(1705年)に、岡山藩主・池田 綱政(いけだ つなまさ)によって現在地に社殿を新しく建てて遷座したといわれている。
また、古代は宮城山付近まで入江になっていた。
安仁神社の南の山中には、「綱掛石神社(つなかけいし じんじゃ)があって、古代祭祀跡といわれる磐座や列石がある。
この磐座は、かつて神武天皇が立ち寄り、船の「ともづな」を掛けたという伝承がある。
綱掛石神社という神社名もこれに由来している。
安仁神社の祭神は諸説あった
現在の祭神は五瀬命(イツセノミコト)・稲氷命(イナイノミコト)・御毛沼命(ミケヌノミコト)。
いずれも神武天皇の兄にあたり、安仁神社という名称はそれに由来するという。
しかし、この祭神が定められたのは、昭和の戦後の時代。
それまでは、大きく歴史ある神社でありながら、祭神について諸説あり定かでなかったのだ。
そのため、明治になるまでは安仁神社の祭神という意味の「安仁神(アニノカミ)」を祭神ということにしていた。
明治時代に「祭神不明」と改めたが、大正時代になって再び「安仁神」としていたのだ。
江戸時代以前は、これら以外にもさまざまな祭神の説があった。
しかし、もっとも有力なのは、土着の神という説だろう。
ただし有力な説であるが、一番詳細を知ることができない説でもあるが…
現在の祭神(神武天皇の兄3神)は、地元の古老が言い伝えだとしていた説だそうである。
正直、根拠にとぼしく、安仁という音から生まれた俗説のように思えるが、現在は神武天皇の兄3神が祭神となっている。
近くの綱掛石神社に、神武天皇の伝承があることも影響しているだろう。
なお、おもな祭神の説は、以下のようなものがあった。
- 不詳
- 祭神が伝わっておらず、明治より前は祭神不詳となっていた。
明治3年(1870年頃)に岡山藩がまとめた『神社明細帳』でも、諸説あって判別できないとして不詳として記載。 - 天照大神 (アマテラスオオミカミ)
- 池田綱政『祈願文』寛文10年(1670年頃)
- 地元の土着の神
- 大澤惟貞『吉備温故秘録』寛政年間(1789〜1801年頃)
- 安倍安仁 (アベノヤスヒト)
- 平安時代前期の高官。名前と神社名の類似が理由。
大澤惟貞『吉備温故秘録』寛政年間(1789〜1801年頃) - 阿田賀田須命 (アタカタスノミコト)
- 和邇(わに)氏の祖神といわれる。ワニと神社名の類似が理由。
大澤惟貞『吉備温故秘録』寛政年間(1789〜1801年頃)
吉田東伍『大日本地名辞書』明治33年(1900年) - 秋篠安仁 (アキシノノアニ)
- 平安時代の高官。名前と神社名の類似が理由。
国学者 土肥経平『寸簸乃塵(きびのちり)』安永7年(1781年頃)
松本亮『東備郡村志』天保8年(1837年頃) - 吉備下道国造兄彦命 (キビノシモツミチノクニツクリ アニヒコノミコト)
- 高梁川下流の西岸一帯を治めた吉備氏系の豪族。吉備真備の祖先。名前と神社名の類似が理由。
吉田東伍『大日本地名辞書』明治33年(1900年) - 彦五十狭芹彦命 (ヒコ イサセッリヒコノミコト)
- 吉備津彦命(キビツヒコノミコト)のこと。吉備を治めた吉備氏の祖で、吉備津彦神社の祭神。
孝霊天皇の子で長兄であることと神社名がアニであることが理由。
吉田東伍『大日本地名辞書』明治33年(1900年) - 阿知使主 (アチノオミ)
- 渡来系豪族の東漢(あまとあや)氏の祖。アチと神社名の類似と、鎮座地の隣に阿知の地名があることが理由。
吉田東伍『大日本地名辞書』明治33年(1900年) - 主祭神:五瀬命 (イツセノミコト)、相殿:稲氷命 (イナイノミコト)・御毛沼命 (ミケヌノミコト)
- 神武天皇の兄のため、神社名がアニであることが理由。明治になって出てきた一番新しい説だが、現在の祭神。
明治8年(1875年)の安仁神社社務 太美大造による『安仁神社御伝記』で初めて書物に記載。
その後、安仁神社宮司による『安仁神社御縁起』で「古老の口伝」であるとする。
昭和27年(1952年)の安仁神社宮司『神社明細書』で正式に安仁神社の祭神となり、現在に至る。 - 安仁神 (アニノカミ)
- 安仁神社が祭っている神という意味。祭神不詳だが、不詳のままとすると体裁がよくないため、安仁神としたとされる。
安仁神社社務所『安仁神社誌』大正14年(1925年)
安仁神社は備前国の一宮なのか?二宮なのか?
安仁神社は、もともと一宮だったが、二宮に変わったという伝承がある。
しかし、これは地元での言い伝えに由来していて、書物などの記載はなく根拠がないようだ。
逆に、二宮であったことは書物に記載がある。
『式内社調査報告』では、古代に備前国で唯一の「名神大社」であったことが、地元で一宮であったと誤って解釈され伝えられてきたのではないかと推測している。
安仁神社が鎮座する地は旧 邑久郡大宮村藤井というところだったが西大寺市に合併したとき、すでに西大寺市に藤井があったため、安仁神社がある藤井を改称する必要が生じた。
本来なら「大宮」を付けるべきところ、地元住民の一宮に対するこだわりが強く「一宮」に改めてしまった。
安仁神社へのアクセス
自動車の場合は、西大寺地区中心部からは、県道28号を進む。
また岡山ブルーラインからは、西大寺インターチェンジで降りて、県道28号へ。
県道28号を南下して、県道28号から県道234号、そして県道235号と進む。
公共交通機関を利用する場合、近くに鉄道駅はない。
もよりは、JR赤穂線の西大寺駅になるが、かなり離れている。
もっとも近いバス停は、「宿毛(すくも)」バス停。
両備バスの牛窓行きのバスで向かうことができる。
バスは西大寺駅前から発車している。
宿毛バス停から南東方面へ約2.5km歩くと、安仁神社へ到着する。
安仁神社の概要
神社名 | 安仁神社 (あに じんじゃ) |
---|---|
別名 | |
祭神 | 五瀬命 (イツセノミコト) ※主祭神 稲氷命 (イナイノミコト) 三毛沼命(ミケヌノミコト) |
利益 | 国土安全、国家安泰、五穀豊穣、海上安全、交通安全など |
鎮座地 | 岡山県岡山市東区西大寺一宮895 |
連絡先 | 086-946-1453 |
駐車場 | 100台程度 |
創建 | 不詳 |
旧社格 | 式内社(名神大社) 備前国 一宮? 備前国 二宮 国幣中社 |
例祭 | 建国禊 (2月11日) 茅の輪神事 (7月11日) 秋祭り(10月 第1日曜) |
HP | 安仁神社 |
備考 |
参考
- 式内社研究会『式内社調査報告』(皇學館大学出版部)
- 『岡山県大百科事典』(山陽新聞社)
- 安仁神社|岡山県神社庁 公式サイト
- 安仁神社 公式サイト