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引野町(ひきのちょう)は福山市南東部に位置する地域です。現在は引野町・引野町北・引野町南・引野町東に分かれています。
かつては深津郡(ふかつぐん)および深安郡(ふかやすぐん)に属する引野村でした。
国道2号線、JR山陽本線が通る郊外型の市街として商店や企業・新興住宅が多く建つエリアとなった引野町についてご紹介。
あくまで当サイトでの見解です。
引野町ってこんなところ
福山市南東部に位置します。
南北に丘陵が広がり、その中部に西側から「く」の字型に平地部が丘陵に食い込むような地形をしています。
中央を東西に国道2号線、JR山陽本線・山陽新幹線が通過。
引野町のほぼ中央部にJR東福山駅があります。
丘陵より南部はかつては海に面していました。
しかし日本鋼管(現 JFEスチール西日本福山地区)の進出により埋め立てられました。
引野町を含む福山市東南部はかつては農地が広がる地域でした。
しかし郊外型の市街化がすすみ、現在は農地は減少。
商店・企業・新興住宅が建ち並ぶ新興市街と変貌しています。
住所表記も引野町から引野町北・引野町南・引野町東が区分されました。
地名の由来
「引野=低野(ひくの)→ひきの」で低丘陵が由来か
『古代地名語源辞典』によると、引野の地名は記載がありせんが、類似の地名として武蔵国に比企郡、上野国邑楽郡に疋太郷、遠江国長上郡に蟇沼(ひきぬま)郷、また各地に引田・曳田があります。
同書によるとヒキはヒクの変化で、「低い」を意味するとのこと。
低地・低湿地を表す場合と、低山を表す場合があるようです。
前述の地名はいずれもこれに当てはまるようです。
引野町の場合、低地と低山の双方の可能性があります。
後述しますが、引野町中部〜西部の平地は江戸時代に干拓されたもの。
それまでは平地の大部分は海や干潟でした。
そして新開地は引野村沖の干拓地であることから「引野沼田」と呼ばれました。
平地部が造成される前から引野村が存在していた点と実際に底丘陵が連なっている地形である点を考えると、低地の意味より「低山」の意味の可能性が高いと思います。
またこの場合の引野の「野」は土地や地域といった意味と解釈。
つまり低く連なる丘陵地とその周辺の地域であることから低野(ひくの)。
それがヒクノ→ヒキノと変化して、引野の字を当てたものということです。
なお同書にはヒキは日置(ひおき、へき)の変化とするものも記載があります。
これは古代の部民(ヤマト政権に隷属し、各地に居住して各種労役を担った集団)の一種である日置部に由来しています。
しかし引野町は古代にその名が出てこないため、日置部由来の可能性は低そうです。
歴史
古代〜中世
古代は備後国深津郡(ふかつのこおり)の範囲内。 その中のどの郷の範囲内であったかは定かではありません。
引野は古代にはすでに丘陵麓の海岸に沿って集落がありました。
不動里(ふどうり)・宅部(たくべ)・長浜(ながはま)の山麓には古墳時代の貝塚、長浜の丘上に箱式石棺の古墳が発見されています。
中世には山城も築城されました。
また引野丘陵には横穴式石室をもつ後期古墳が点在。破壊された谷地(たにじ)1~2号墳、不動里古墳、宅部古墳、一部残存する大谷古墳などもありました。
近世
江戸時代には一時期を除いて福山藩領でした。 この頃から引野の地名がみえはじめます。
元和5年(1619年)の備後国知行帳に深津郡引野村が記載されています。
正保年間(1644~1648年)に深津村王子端(おうじばな、現 福山市王子町)から引野村梶島山に向かって東西に千間(せんげん)土手が築かれて干拓されます。
造成された新田は西部を深津沼田村、東部を引野沼田村と呼びました。
それぞれ深津村と引野村の地先の海・干潟を干拓したことが由来です。
なお千間土手は現在の国道2号線の少し南に国道にほぼ沿ってありました。
近世末期、引野村大岩谷(おおいわだに)に陶石が見つかります。 文政~天保(1818~1844年)の頃に磁器の窯が築造され「岩谷焼」と呼ばれます。
日用雑器や鞆の保命酒の徳利を製造。 貢皿山として藩の役人が監督。 元掛方として福山の商人三島屋などが資本を出していたようです。
しかし明治17年に廃窯。
これをうけて東谷の長崎に元 岩谷焼陶工により「長崎窯」、明治19年には山内国七により大岩谷窯が開かれ、岩谷焼を受け継ぎました。
そしてこの流れをくむのが大門町にある現愛広島県内最古の陶津窯や笠岡市茂平の吉備焼です。
近現代
明治19年(1886年)、引野村は引野沼田村を併合。
その後、深津郡が深安郡に変わったのを経て、福山市に編入合併。
昭和36年(1961年)から引野村の丘陵南麓沖を大規模な埋立工事を敢行。 日本鋼管が進出、急激な都市化が進行しました。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三五巻 広島県の地名』平凡社
- 楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』東京堂出版
- 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
あくまで当サイトでの見解です。