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大門(福山市) 〜 地名由来は中世からの古刹の門? それとも入江? 郷名?

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大門町(だいもんちょう)は福山市の地名です。

江戸時代の深津郡(ふかつぐん)大門村(だいもんそん)を引き継ぐ現在の大門町大門町大門を指します。広義ではそれらを中心とした大字に大門町を関する地域とそこから分離・新設された大字の総称です。

当地は福山市の最南東、岡山県境にある地域。
JR山陽本線の大門駅があって、西日本屈指の製鉄所・JFEスチール西日本福山地区の最寄り駅になっています。

古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。

「大門」はこんなところ


福山市最東部の海域で、岡山県に跨がる大門湾。その奥に位置する地域です。

北部は山地で丘陵が突出した付近に集落を形成。

東西にJR山陽本線が走り、大門駅が設置されています。
また線路に沿うように国道2号線が走っています。

大門町および大門町大門を中心に大門町野々浜(ののはま)、大門町津ノ下(つのしも)の区域があります。さら新興地区として新設された大門町旭(あさひ)、大門町日之出丘(ひのでおか)、城興ヶ丘鋼管町が区分されています。また、北部の山地の一部はその北側の伊勢丘などの一部にもなっています。

地名の由来

大門=「寺院の正門」?

大門とは一般語としては寺院の外側に設置された正門のことです。

大門町大門にある真言宗の古刹・高野山 真明寺(しんみょうじ)。この寺院の正門があったことが地名の由来とする説があります。

真明時は中世の天文年中(1532〜1555年)に現在の大門町野々浜にあった明知山城主・岡志摩守が菩提所として建立したといわれます。

境内には高田則義の墓があります。高田則義は、備中国小田郡の大橋山城(現 岡山県笠岡市)の城主で、笠岡の陶山氏との争いで敗れ、この寺で自害しました。

大門=「入江」?

(と)は、山と山に挟まれた狭い平地や、陸地と陸地に挟まれた狭い海=海峡入り江を意味します。
大門の場合は後者の意味と考えられます。

現在の「大門町」となっている平地部は近世に干拓されるまでは海で、入江でした。

この入江に面していることが地名の由来とする説です。

「大」は大きい入江という意味の可能性もあります。 しかし他にも近隣地域に大きな入江などの海域もありました。
ですのでこの場合の「大」は美称と考えられます。

つまり入江を意味して「大門(おおと)」となり、それが音読みに変化して「だいもん」となったという説です。

大門=古代「大野郷」の変化?

大門は古代には深津郡(ふかつのこおり)の一部でした。
深津郡には大宅・大野・中海の3郷がありました。
しかしいずれも明確に遺称地とされる地名がなく手がかりが少ないため、どこにどの郷があったかの推測が難しいのです。
また3郷とも読みがわかりません。

そのため諸説あるのですが、大野郷を大門周辺に比定する説があります。
そしてそれを根拠に大門は大野郷の遺称だとします。

大野郷の読みは不明なのですが、他地方に同名の大野郷が数箇所あります。
それらの読みから考えると「おおの」の可能性が高いと考えられます。

そしてこの説は、「おおの」が「おおと」に変化して「大門」の字を当て、さらにそれが音読みで「だいもん」に変化したとします。

ただし大門一帯は古くは平地がほとんどないので、大野郷を大門一帯に比定すること自体が疑問視されます。

大門の北側の坪生地区を大野郷の中心と考えて、大門はその一部だったと考える説もあります。
中世には大門は坪生にあった坪生庄(つぼうしょう)の範囲内だったともいわれるので、こちらの説の方が信憑性は高いと思います。

ただし中心だった坪生地区は大門の北隣とは言え、高い山に阻まれており一体とした地域とは言いがたい点は注意が必要です。

歴史

古代には入江が深く陸地側に入り込んでいました。
備後国に入る海からの入口として港があったとされます。

中世になると坪生庄(つぼうしょう)の一部だったとされます。

当地を含む周辺の産土神として八幡神社(現 大門八幡神社)が鎮座。
同所から土師器や中国宋代の竜泉窯青磁・白磁のなどが出土。平安時代末から鎌倉時代にかけて祭祀が行われていたと思われます。

戦国時代には野々浜の明知山(あけちやま)城の支配下でした。

江戸時代は初期の一時期を除き福山藩領。

元和5年(1619年)の備後国知行帳によれば、寛文6年(1666年)に当時の福山藩主・水野氏により大門湾の奥部を干拓。大門新涯が造成されました。
現在の国道2号線以南の平地部がおおむねそれに該当。

これを受けて北部山地が造成されて伊勢丘団地・幕山団地などの大型住宅団地が誕生。
当地中心部一帯も宅地開発されて人口が激増。郊外型の市街地化しました。

明治9年に深安郡(ふかやすぐん)大門・野々浜・津之下の各村が合併して深安郡大津野村(おおつのそん)になります。

昭和30年、深安郡大津野・春日・坪生村が合併して同郡深安町に。
しかし7年後の昭和37年に福山市に編入合併となりました。

昭和になり、日本鋼管(現 JFEスチール西日本福山地区)が進出。当地西北の海域が埋め立てられます。

まとめ

大門の地名の由来は諸説ある上、いずれも決定的な根拠に不足しているので、大門の地名の由来は明確には確定しにくいと言わざるを得ません。

参考資料

  • 『日本歴史地名体系三五巻 広島県の地名』平凡社(1982年)
  • 楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』東京堂出版
  • 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。