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「神辺(かんなべ)」は、福山市北部の地名です。
2006年3月1日に福山市に編入合併する以前は深安郡(ふかやすぐん)神辺町(かんなべちょう)が存在していました。
その神辺町の地名由来地が「神辺」です。
同時に神辺町の中心地となっています。
あくまで当サイトでの見解です。
「神辺」はこんなところ
旧神辺町は、福山市域の北東を占めます。東は岡山県境で井原市に隣接。
その神辺町の中南に位置するのが神辺です。
神辺は現在の「川南(かわみなみ)」「川北(かわきた)」の2大字に分かれています。
つまり「神辺」という地名は住所表記上は消滅し、先の2大字の総称として存在しているのです。
ただし旧神辺町が福山市に合併後、旧町名を大字に冠しているので、神辺という名称自体は住所表記に残されています。
川南・川北も現在は福山市神辺町川南・同市神辺町川北(正式には神辺町大字川南・神辺町大字川北)となっています。
地名の由来
江戸時代の神辺城・福山藩主水野氏が書いた「水野記」には「神奈備(かんなび)」「神戸(かんど)」の転訛した説が記されています。神奈備とは神様の力のおよぶ範囲のこと。
当地内の古社・天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)の神域を指して「神奈備」と呼んだとの説がある。
しかし私はこれは字面からの推定と思います。
私は古い地名は地形に由来しているもの多いことと考え、神辺の上記の説も同様のものと考えます。
神辺=川南・川北の地理的状況から、「川の辺(かわのべ)」が転訛して「かんなび」となり、神辺の字を当てたと私は考えます。
実際に川南・川北両地区には中規模河川の高屋川が流れており、信憑性は高いのではないかと思います。
川南・川北も川辺の南・北という意味の地名であると想定できます。
歴史
神辺一帯は備後でもっとも広大な平野の一角に位置したため、縄文時代以降の遺跡があるなど栄えました。
さらに古代山陽道が東西に走り、古代の交通の要衝でした。当地一帯は安那(やすな)郡の一部でした。
古代に神辺を含む福山北部平野まで海が湾入していて、これを「吉備の穴海」の推定地とする説が古くからあります。
しかしこの地域の貝塚の最北地が北本庄あたりであるなど、それを裏付けるものがなく、実際は古代においても海は神辺までは湾入していなかったと考えられます。
中世になって「神辺」の名が初めて出てきます。
福山北部に「神辺庄」という荘園です。
この荘園は現在の川南・川北だけでなく周辺の神辺町一帯や西隣の御幸町の一部まで至る範囲でした。
天正14年(1586年)の毛利輝元宛状に「神辺之内岩成・藪路・坂田」との表記もあります。
建武年間(1334〜1338年)頃、神辺の地に備後の守護所が置かれ、備後国内の行政・経済の中心地となります。
また川南の南方の山上に神辺城が築城(築城時期は諸説あり)され、川南から川北にかけて城下町が整備されます。
城主が杉原理興のとき、神辺城を主戦場とした戦が勃発。
江戸時代になると、神辺城に福島正澄が入城。一帯を支配しました(神辺藩)。
元和5年(1619年)には城主が水野勝成に代わります。
水野氏は、神辺の南方の海を干拓。干拓前に沿岸だった丘上に福山城を築城します。
干拓地の一部を開発して城下町を整備。現在の福山中心市街地の前身です。
水野氏も神辺城を廃して福山に拠点を移し、福山藩となります。
福山に政治拠点が移った後、神辺には近世山陽道(西国街道)の宿場・神辺本陣が設置され、旧神辺城下は宿場町「神辺宿」として、備後国内屈指の宿場町として繁栄します。
また江戸時代に神辺は初期に麓(ふもと)村と呼ばれる時期が一時あり、その後は川北村・川南村に分裂。神辺は2村の総称となりました。
学者・菅茶山も神辺(川北)の生まれで、彼が神辺宿場町に開いた廉宿(れんじゅく)を開きました。
水野氏が断絶すると一時期江戸幕府直轄領(天領)となります。
元禄13年以降、ふたたび福山藩領となりました。
明治以後、備後織物の主産地となります。現在は全盛期よりも衰退していますが今も繊維工業が盛んな地域です。
昭和4年(1929年)、深安郡川南・川北村が合併、神辺町となります。
昭和の時代についに元来の「神辺」が復活。
その後周囲の地域と合併していき、中世の神辺庄のような範囲にまで拡大。
人口も最盛期で4万人を超えました。
しかし平成の大合併により、2006年3月1日に福山市に編入合併。
福山市の一部として大字に旧町名を冠して神辺町○○という形の住所表記となっています。
まとめ
神辺=川辺
当サイトでは神辺の地名の由来は高屋川の川沿いに位置することから、川の辺→神辺と変化したと考えます。
元々の神辺を指す総称としての神辺は住所からは消滅してしまいました。
しかし、旧町名が住所は住所表記の一部として残っているのは救いです。
また、もし水野氏が南方の福山城を築城していなかったら、神辺城がそのまま使用されていたのでないでしょうか。
もしそうであれば福山市の中心部になっていた可能性がありますし、「神辺市」なる市が誕生していたかもしれません。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三五巻 広島県の地名』平凡社(1982年)
あくまで当サイトでの見解です。