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山手(やまて)は、総社市の行政上の地域で、旧山手村にあたります。
以前は単独の自治体、都窪郡山手村でしたが、2005年3月22日に隣接する旧総社市・都窪郡清音村と新設合併して、新しい総社市となりました。
同時に合併した総社市は新市名に採用された上に同名の大字があり、また清音村は合併後に旧清音村の大字全てが清音の名を冠しました。 しかし山手村は同名の大字はなく、大字の一部に旧名称が冠されることもありませんでした。
これにより明治22年より116年にわたる山手村の名称は住所表記上は消滅してしまいました。
なお行政上の地域や学区、通称的な呼び名としては現在も生きています。
あくまで当サイトでの見解です。
「山手」とはこんなところ
総社平野の東南に位置。北の旧総社市街、西の清音とは一体となった連続的な地形となっています。
いわゆる「吉備路」と呼ばれる古代吉備国の中枢の一角。
現在も古墳などの史跡が多く、吉備路観光のメインとなる地域のひとつです。
西部〜南部〜東部は山に囲まれ、西から福山・和霊山・狸岩山・龍王山・仕手倉山などが連なっています。
中部以北は平地であり、集落が集中しています。
古代には古代山陽道、近世には近世山陽道(西国街道)、現代は県道270号線が通過。
また南北に山陽自動車道倉敷インターチェンジと岡山空港方面を結ぶ国道429号線が通過。
当地中心付近で交差しています。
現在米作のほかに、清浄栽培のセロリは西日本有数の産地となっています。 他にはアールスメロン栽培も。
他の産業としては吉備路観光による観光業も盛ん。
水島臨海工業地帯に近く新興住宅も造成されており、非農業人口は半数以上。
山手地区となる大字は西郡、地頭片山、岡谷、宿と、新総社市誕生後に大型団地区域を岡谷から分離した西坂台。
宿は近世に備中国分寺の門前町でした。
地名の由来
山手=「三方を山に囲まれた麓の地」か
村名の山手は平安時代末期に当地一帯にあった荘園「山手庄(やまてしょう)」に由来しています。
山手庄およびその後継とされる山手保(やまてほ)は、前述の通り三方を山に囲まれたその麓に集落があることに由来しているとされています。
地形の状況から考えて妥当な由来と思います。
他に『古事記』の仁徳天皇吉備行幸のまつわる話の中に出てくる「山方」に由来するという説もあります。
当サイトでは「山手=三方を山に囲まれた麓」説を支持します。
歴史
当地は吉備国および備中国の中枢の一角に位置します。
古代、窪屋郡(くぼやのこおり)の三須郷(みすごう)の一部と推定されます。
『壬生家譜』の記述に、平安時代末期の治承4年〜建久9年(1180〜1198年)の間に小槻国宗が領主となり「山手庄」が成立したとあります。弘長3年(1263年)3月の官御祈願所注進状(門葉記)にも「山手庄」の記載があります。
応永34年(1427年)総社宮(現 総社市)造営の際に土壇築の二番手に山手国松の人夫があてられ、永享元年(1429年)11月の遷宮にのときには随兵の後陣として「ヤマテ」などから12騎、供400人が出たという記録が、応永33年の『惣社宮造営帳写』(池上文書)にあります。
なおこの造営帳写の末尾には総社宮の方8町の境内の南は山手までとの記述もみられます。
その後山手庄は「山手保」と変化。
近世初期には山手村と称していました。
しかし西郡村とその枝村の地頭・片山・岡谷・宿の各村に細分化。
いずれも岡山藩領でした。
また前項の通り、宿は国分寺の門前町として賑わいました。
明治22年(1889年)町村制施行を受けて西郡・地頭片山・岡谷・宿の4村が合併して窪屋郡山手村が成立。都宇郡・窪屋郡の合併により都窪郡に属したのを経て、平成17年(2005年)3月22日に旧総社市・都窪郡清音村と新設合併して、新しい総社市となり、116年の歴史に幕を下ろしました。
山手のおすすめのお店・スポット
【オールウェイズ】食べ応えのあるサンドイッチが魅力のカフェ(総社市山手)農マル園芸 吉備路農園 〜 岡山吉備路観光のついでに立ち寄れる!
参考資料
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社(1974年)
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社(1979年)
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社(1981年)
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