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ご存知の通り、日本には47の都道府県がある。
北海道や愛媛県・沖縄県などの例外を除いて、多くの都道府県は県庁所在地となっている都市名または所属する郡名を都道府県名に採用している(命名当時から県庁が移転して現在はそうなっていないものもあるが、あくまで命名当時の話)。
しかし神奈川県は県庁所在地の都市名「横浜」や所属郡名「久良岐(くらき)」ではない。
なぜか?
結論から言えば、幕末の横浜開港のときのいざこざが、明治時代の県名設定時にまで影響しているからだ。
幕末の開港時のいきさつでややこしいことに
幕末の1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船が浦賀沖に来航。日本に開国を要求。
翌年に日米和親条約、1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結される。
この条約によって翌年6月に横浜港の開港に至る。
しかしこの条約締結までのいきさつが原因でややこしいことに。
米国代表ハリスは神奈川(現 横浜市神奈川区)を開港することを強く希望。
一方、江戸幕府は当時江戸に近い商都であった神奈川はどうしても開港したくなかった。
神奈川は東海道の主要宿場「神奈川宿」であると同時に大きな港町「神奈川湊」として大いに繁栄しており、幕府にとって重要都市だったからだ。
幕府は神奈川に近い漁村の横浜村(現 横浜市中区)を整備して新たな港町を作り、そこを開港することを画策していた。
ちょうど長崎の出島のような感じだろうか。
だがハリスの米国側も譲らない。
そこで幕府はある作戦にうってでる。
条約上の「神奈川」を拡大解釈し、当時の神奈川湾(横浜湾)の沿岸地帯を「神奈川」と称し、神奈川を開港するとして条約を締結。
その上で「神奈川の一部」である横浜村を開港する、という寸法だ。
この作戦により幕府の思惑通り、条約上は神奈川開港とし、実際は横浜村に新地を作り開港をしたのだ。
しかしこの影響で一つややこしい問題が発生。
開港した横浜港およびその港町を管轄する役所が必要だったのだが、条約上、神奈川湾沿岸を「神奈川」としているため、「本来の神奈川」= 神奈川宿・神奈川湊の外にその役所があっても「神奈川」と名乗る必要があったのだ。
こうして設置した役所が神奈川奉行所。
同奉行所は3つの役所からなり、神奈川奉行所会所を神奈川宿の一部だった橘樹郡青木町(現 横浜市神奈川区)に。
神奈川奉行役所を久良岐郡戸部町(現 横浜市西区)に。そのため通称 戸部役所とも。
そして神奈川奉行所横浜運上所を久良岐郡横浜町に設置。
その後、大政奉還・明治維新。
1868年(慶応4年)4月11日に明治新政府は神奈川奉行所を廃止。
神奈川奉行所横浜運上所の地に横浜裁判所を設置。
また戸部奉行役所の地に出先期間として戸部裁判所を設ける。
ところが数日後の同月20日に横浜裁判所は神奈川裁判所に改称。
わずか数日での改称劇に当時のいざこざが予想できる。
推測だが、横浜裁判所設置後、先の条約での「建前」が重要であると指摘されて、急いで「神奈川」に改称したのではなかろうか?
さらに同年6月17日に府藩県制と呼ばれる廃藩置県の前段階的な地方自治制度が誕生。
これを受けて「神奈川府」が設置され、旧神奈川裁判所が役所に。
1868年(明治元年)9月21日には神奈川府が神奈川県(第一次)に改称。
これが「神奈川県」と称した最初のものである。
しかしこれは府藩県制下の県のため現在の神奈川県とは別のもの。
1971年(明治4年)に廃藩置県が実施される。
同年7月に第一次神奈川県を母体に、廃藩置県の新制度下における新たな神奈川県(第二次)が設置された。
県庁は旧神奈川県と同じく横浜。
この第二次神奈川県が現在の神奈川県だ。
その後近隣県との統合などで範囲が変化し現在に至っている。
このように開港後の神奈川奉行所設置や新政府の横浜裁判所の神奈川裁判所への改称は、日米修好通商条約で「神奈川」を拡大解釈させて、広義の神奈川湊は神奈川湾(現 横浜湾)岸一帯として横浜を神奈川の一部としたことが影響しているのだ。
そしてのちの神奈川県もこれの影響での命名である。
なおその後、久良岐郡横浜町は横浜区を経て横浜市に。
橘樹郡神奈川町は周辺と合併していくが、結局明治34年に横浜市に編入合併。
昭和10年に横浜市に行政区が設置され、旧神奈川町を中心にした神奈川区がこのとき誕生。
神奈川県の地名由来地は区名として存続したのだ。
元々の「神奈川」の地名由来は?
初見は「神奈河郷」から
まず神奈川県西部の川崎市および横浜市の大部分などは、武蔵国だった。
同国東部の都築(づづき)郡・橘樹(たちばな)郡・久良岐(くらき)郡にあたる。
そして神奈川の地名が最初に歴史上登場するのは中世・鎌倉時代。
1266(文永3年)5月2日の北条時宗下文に「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河両郷」とあるのが初見。
当時、神奈河郷(かながわごう)は相模国鎌倉の鶴岡八幡宮領だった。
神奈川郷の範囲はのちに神奈川宿や神奈川湊となる神奈川町(現 神奈川区南部)を中心にその周辺も含むエリアだった推定される。
現在西区の北部、岡野・軽井沢・浅間町あたり、つまり横浜市内を流れる河川 帷子川(かたびらがわ)の北岸まで範囲だった。
前述の初見の文書では郡名までは記されていない。
地理的には橘樹郡か久良岐郡のどちらかであるのが、神奈河郷がどちらの郡に属していたか分からない。
また時代により両郡境も変遷している。
そして少なくとも江戸時代までには両郡境はおおむね帷子川が境界となっている。
帷子川を境界と定めたということは、郷の範囲も帷子川までだったと推測できる。
なお古くは神奈川は「金川」「狩野川」などとも表記されていた。
川も河の字を用いることもあった。
地名由来は諸説あるが…
神奈川の地名由来は諸説ある。
代表的な由来説は下記の通り。
金川=鉄分を含む川
帷子川が、かつては鉄分を含む土砂が流れ出ていたことに由来するという説。
上無川=水量が少ない川
水量が少ないため、水源地が定かではない川があったためという説。
水源地が不明なので「上が無い」という意味で「上無(かみなし)川」とし、「かみなしがわ」が変化して「かながわ」となり、神奈川の字と当てたという。
ただしこの水量の少ない川がどの川だったかはわからない。
近くの川といえば帷子川がある。
同河川は横浜を代表する河川。
昔は今と状況が違うとはいえ、水量が少なかったとは思えない。
韓川(からかわ)=朝鮮半島渡来人の地
もとは「韓川(からかわ)」で、それが「かながわ」と変化、神奈川の字と当てたという説。
韓川となったのは朝鮮半島からの渡来人が多く住む地であったとする。
神奈川県全域で考えれば渡来人に由来する地もあるだろうが、神奈河郷の推定地内では考えにくい説ではなかろうか。
むしろ「からかわ」の変化と考えるならば、地形由来で「空(から)の川」または「枯れ川」で、前述の水量が少ない川と同じ意味とする可能性の方も考えられる。
ただしこの場合も付近に地名由来となるような水量の少ない川に相当するものがない。
地形由来で考えると「湾曲した川」
当サイトでは古い地名は地形に由来していると考える。
地形以外が由来の地名もあるが、古い地名の場合はまず最初に地形由来を考えてみることにしている。
では神奈川の場合はどうか。
『古代地名語源辞典』では「カナ」がつく地名はいずれも「カネ」の変化である。
カネは漢字で「曲」。
古い日本語で漢字の通り「曲がった」という意味。
つまり「かながわ」は「かねがわ」の変化で、「曲がった川」という意味だ。
この川は神奈河郷推定地域の西端を流れる帷子川である。
帷子川が湾曲していた地の北岸に郷があったのが由来と推測できる。
つまり神奈川の地名由来はこの帷子川の地形から来ているのだ。
その後、神奈河郷という地名は使われなくなる。
変わって室町時代あたりからは「神奈河(神奈川)湊」が登場する。
江戸時代には東海道の宿場として「神奈川宿」が設置され、宿場町・港町としての「神奈川町」と呼ばれるようになったのだ。
あとがき
神奈川県の県名由来は、幕末の日米修好通商条約が影響していた。
しかし幕府が必死になって守った神奈川だが、結局「神奈川の一部」として開発した横浜が繁栄し、逆に神奈川が「横浜の一部」となってしまったのは皮肉な話かもしれない。
かろうじて横浜市が神奈川県の一部なのが救いなのかもしれないが、県と市は自治体としては別の自治体なので「一部」という言い方は不適当かもしれないが…
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参考資料
- 『日本歴史地名体系 神奈川の地名』平凡社
- 『古代地名語源辞典』東京堂出版
- 『横浜・歴史の街かど』横浜開港資料館
あくまで当サイトでの見解です。