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富田町(とんだちょう)は岡山市北区の町丁です。
江戸時代には岡山城下の一部。 町人町・侍屋敷町・武家屋敷町でした。
伊賀忍者の住む忍屋敷も所在。
現 富田町は城下町時代は旧 富田町・滝本(たきもと)町・下市(しもいち)町・丸亀(まるがめ)町に分かれていました。
また現町域内を近世山陽道(西国街道)が通過。
域内で直角に街道が折れていました。
あくまで当サイトでの見解です。
富田町はこんなところ
富田町は岡山中心市街のやや北部に位置します。
JR岡山駅の東北にあたり、北側を東西に国道53号線、東側を南北に柳川筋(国道53号線)が通過。
さらに西隣を南北に西川が流れいます。
これらがエリアの境界です。
西隣は西川を挟んで岩田町、南隣は野田屋町、北隣は国道53号を挟んで南方(みなみがた)、東隣は柳川筋を挟んで弓之町。
江戸時代には岡山城下の一部。
このときは現町域は、旧 富田町・滝本(たきもと)町・下市(しもいち)町・丸亀(まるがめ)町に分かれていました。
これらの地域は町人町で大部分が町家です。
寛文9年(1669年)8月、大規模な火災により多数の家屋が焼失。
その後、町北部の焼け跡を徒士(かち)屋敷を建てて徒士町としました。
さらにその北裏の町には伊賀忍者の住む忍屋敷も。
また忍屋敷の続きには岡山藩の重臣・池田勘解由(かげゆ)の下屋敷がありました。
その屋敷前の西川には「勘解由橋(かげゆばし)」という橋が架かっていました。
現在は国道53号線の南方跨線橋東詰の西川にかかった橋がこれに相当します。
西川には10の橋が当時あったといわれ、その「一ノ橋」にあたります。
延宝4年に近世山陽道(西国街道)が、南の現野田屋町から北上し当地で西方向に直角に曲がり、西方向へ通過するように変更されます。
また西川の西には岩田町・万町ができて城下町の出入口に。
岩田町と富田町の間の西川には「二ノ橋」と呼ばれる橋が架けられて、街道が通過していました。
現在もこの橋は現存しています。
街道通過後、富田町周辺は街道を中心に大いに繁栄しました。
地名の由来
実は詳細は分かっていない。 移住元由来? 有力者の姓に由来?
富田町の地名由来はよく分かっていません。
富田という場所からの移住者が居住したからだとすれば、その場所は富田町より約3.5km南にある農村・御野郡(みのぐん、みののこおり) 富田(とみた)村が有力です。
読みは「とみた」ですがこれがへんかして「とんだ」となったのではないかと推定できます。
なお富田村の名は現在も残っています(後述)。
他には町内の有力者の姓から町名をとったとも考えられます。
現在の町域は昭和39年の改正時から
現富田町域は前述の通り江戸時代には旧 富田町・滝本町・下市町・丸亀町に分かれていました。
旧 富田町は元々は町家を作ったの者の名をとって惣二郎(そうじろう)町と呼ばれていました。
延宝4年に近世山陽道(西国街道)が町域を通過するように変更されたときに富田町に改称しています。
丸亀町・下市町・滝本町、さらに現 野田屋町の一部となっている山崎町などの範囲は元は博労(ばくろう)町と呼んでいました。
博労(伯楽)とは牛馬の選定をする人の事で、牛馬の市を博労市と呼んでいました。
毎月定期市として牛馬市が開かれたことが地名の由来とされます。
宇喜多直家が岡山城下を整備した後に領内の博労を集めてできた町とされています。
寛文年間に博労町は上記の町々に分割されます。
丸亀町は讃岐国丸亀(現 香川県丸亀市中心部)からの移住者に由来した町名。
下市町は博労町の由来となった牛馬市が開かれていたことに因んでいます。
滝本町は寛永年間の絵図には新右衛門(しんえもん)町とあります。その後、改称されたと思われますが、町名の由来は不明です。
現代になって昭和39年に町区改訂を実施。
旧 富田町・滝本町・下市町・丸亀町を統合して新たな富田町に。
西部が一丁目、東部が二丁目に再編されました。
まとめ
富田町より南へ約3.5kmのところに「富田(とみた)」という類似地名があってややこしい。
江戸時代に富田町内に忍者の忍屋敷があったことはあまり知られていないようです。
またその名残は現在残っていないと思われます。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 岡山大学付属図書館 『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
あくまで当サイトでの見解です。