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日応寺(にちおうじ)は岡山市北区の大字です。
岡山県の空の玄関、岡山空港がある地です(敷地の一部は隣接地に跨る)。
そんな現代的施設がある一方、奈良時代から続く地名と同じ名の寺院も所在しています。
旧 御津郡津高町(つだかちょう)域にあたる津高(つだか)地域センター管内の一部。
連合町内会やコミュニティ協議会の区域は馬屋上(まやかみ)、また小学校区も岡山市立馬屋上小学校。中学校区は同市立香和中学校。
あくまで当サイトでの見解です。
日応寺はこんなところ
岡山市北区。
岡山市街地の北西の山中に位置します。
市街中心からは自動車でおよそ30分程度でしょうか。
海抜約300メートルの高台となっています。
元々は山中の農村でした。
しかし昭和63年に岡山空港が新設されたのを機に、大型幹線道路も作られて市街地とのアクセスが向上しました。
「少年自然の家」やスポーツ広場といった施設も設置されています。
地名の由来
同名の古刹の門前集落が発達
日応寺地域内には地名と同名の日蓮宗の古刹 勅命山 日応寺が所在しています。
もちろんこの寺院の日応寺が、当地の地名の由来です。
日応寺の門前に集落が生まれ、その門前集落が発展。
江戸時代に津高郡 日応寺村を形成するに至りました。
このときの村域が現在の日応寺地域に相当します。
山中で周辺に街道もなかったことから、江戸時代には門前集落は「門前町」というほどの発達はなく、農村・山村でありました。
歴史
寺院の勅命山 日応寺は奈良時代の養老2年(718年)に多宝坊という僧により創建されました。
同寺の後背地と門前集落南方の尾根上に経塚群が発見されており古くから聖地なっていたと推測できます。
当初は三論宗に属し応永山 法華経寺と称していました。
寺院周辺には門前集落が形成されます。
桓武天皇の病気平癒を祈り、その効があり、それを期に現寺院名の勅命山 日応寺に改称。
寺院周辺には勅使堂・勅使道・玉御膳所などの地名・史跡などが残っています。
また吉備津出身の臨済宗開祖・栄西が少年期に日応寺で修行をしました。
日応寺は平安時代には天台宗に、戦国時代に日蓮宗へと移り変わっていきました。
江戸時時代になると日応寺門前集落とその周辺一帯が津高郡 日応寺村と称されるようなり、岡山藩領となりました。
明治にななると明治22年6月1日の町村制施行により津高郡の当地を含む周辺3村が合併。同郡馬屋上(まやかみ)村を新設、同村の大字日応寺に。
同33年4月、津高・御野両郡の統合により御津郡が成立。同郡の所属になります。
昭和30年3月31日には、周辺と合併し御津郡津高村を新設。
同34年4月1日、町制移行により津高町へ改称を経て、同46年1月8日に岡山市へ編入合併。
昭和63年、岡山空港が開業します。これに伴って幹線道路が整備され、岡山市街地へのアクセスが向上しました。
平成21年4月1日に岡山市が政令指定都市へ移行、行政区(北区)が設置され、現在に至っています。
文化財
寺院の日応寺には重要文化財である不動明王・毘沙門天の立像、梵鐘、番神堂などがあります。
さらに同慈院に勅使屋敷と称する遺跡や海野因幡の自宅跡と伝えられる屋敷跡もあります。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
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