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森下町(もりしたちょう)は岡山市中区の町丁です。
江戸時代は岡山城下の町人町で西国街道が通っていました。
城下町の東の出入口として繁栄しました。
あくまで当サイトでの見解です。
森下町はこんなところ
森下町は旭川の東岸すぐのところに位置します。
操山の北西麓の平地部で、南端を国道250号線が通過しています。
後楽園も近く、森下町の北西にあります。
もともとは上道郡(じょうどうぐん、かみつみちのこおり)国富(くにとみ)村(現 中区国富など)の一部でした。
同村の枝村(元の村から派生した集落)で、森下村と称していました。
戦国時代に岡山城主となった宇喜多秀家が山陽道の道筋を変更します。
そのときに新しい道筋が森下村を北東から南西に向かって通過。
これ以降、村内の民家が町家に変わっていきました。
江戸時代になると岡山藩領になりました。
岡山藩が寛永期 (1624~1644年) に作らせた『 寛永城下絵図 』には森下の名はありません。
同じく慶安期(1648~1651年)作成の『 慶安城下絵図 』では森下町の名前が記載。
この間に森下町が城下に組み込まれたと考えられます。
森下町は岡山城下町の北西端に位置する町でした。
そして前述の通り近世山陽道(西国街道)が通過しています。
そのため岡山城下の東の出入口の町として発展。
山陽道の両側町として栄えました。
町には旅籠があり、他に藺笠や名物「御堂桃」と呼ばれる桃を販売する店が多くありました。
御堂桃の「御堂」は町の南裏にあった小地名「御堂屋敷」のことで、ここで桃を栽培していました。
宇喜多直家の時代、一時期この地に蓮昌寺(れんじょうじ)という寺院が他所から移転してきて、のちに再移転しました。
その跡地であることから「御堂屋敷」と読んでいたのです。
さらに 城下の出入口であることから 町の外れに惣門が建てられ、その脇には番屋敷が所在していました。
地名の由来
文字通り「森の下」
森下町の名前は前述の通り国富村の枝村の森下村から来ています。
この森下村ですが、詳細は不明ですが 枝村ですので開発により新しく派生した集落であることを鑑みて 古代からある名前ではないようです。
ですので地名に付けられた漢字は当て字ではなく字面通りの意味の可能性が高いです。
そうなると漢字通り「森の下」という意味となります。
森下町はちょうど操山から続く丘陵のすぐ北西麓に位置。
「森(山)の下(ふもと)にある地」というのが地名の由来と考えられます。
ちなみに森下町は古代においては上道郡宇治郷(うちごう)の一部と推測されています。
まとめ
現在の森下町は市街の一部として宅地化しています。
しかし江戸時代の惣門跡なども残されており、また旧山陽道だった道筋を歩くと古い建物はかなり少ないものの往時の雰囲気を感じ取ることができます。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 岡山大学付属図書館 『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
- 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
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