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後楽園 〜 日本三名園として有名だけど地名でもある!

後楽園

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後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区にある地名です。

後楽園といえば日本三名園の一つで岡山市を代表する観光地ですが、あまり知られていませんが実は地名としても存在しているのです。

郵便番号は703-8257。平成29年4月末時点での岡山市新着人口統計(町丁別住民基本台帳世帯数・5歳階級別人口)によると、総人口は3人(男性2人、女性1人)。帯数は1世帯となっています。

古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。

概要

地名としての後楽園は岡山市中心市街地の旭川中洲にあたります。ほぼ全域が日本三名園として観光地となっている後楽園で占められています。
それ以外には河川敷や中洲北端を東西に通過する道路とその沿線土地などしかありません。
文字通り後楽園のための地名です。

歴史

元々、旭川は当地より東を流れていました。現在旭川東岸となっている、中区浜・西川原・東川原・竹田などは、当時は旭川西岸でした。
つまり旭川はこれらの地区のすぐ東側を流れていたのです。

そしてこの旭川の旧川筋が御野郡・上道郡の郡境となっていました(西側が御野郡、東側が上道郡)。

戦国時代、慶長2年に宇喜多秀家が岡山城を築城。
城の防護のために旭川が岡山城を囲い込むように流れるように旭川の流路を西へ移動させる大工事を行います。
これにより上記4地区は旭川東岸になりました。

郡境となっている川の流路が変わると郡境も合わせて移動することも多いのですが、この場合は郡境の移動はなされず、旭川東岸であるものの4地区は御野郡のままでした。

また当地も流路変更後も現在のような中洲ではなく、旭川の東岸でした。

現在の中洲のおよそ北西半分は御野郡浜村(現在の浜)、南東半分は上道郡国富村(現在の国富や古京町など)の一部。
そのためその間の陸地部分に郡境がありました。

岡山城下町ができると、浜村の現在の中洲の北半分にあたる所に小姓町という侍屋敷町ができます。

江戸時代になると、貞享3年に当時の岡山藩主・池田綱政は、上記小性町を含む当時の浜村および国富村の旭川東岸の一部に大名庭園(のちの後楽園)を造成。
庭園のすぐ東にも新たな旭川の流路を作り、庭園を中洲状とします。これにより現在の地形が誕生。
なお小性町の侍屋敷は移転しています。

中洲のほぼ中央部を、ほぼ南北に郡境が通り、後楽園内にある「沢の池」にある2つの小島の間を境が通るようになっていました。
そのため、池の小島の郡境西側(御野郡側)の島を御野島、東側(上道郡側)を上道島(中ノ島とも)と呼びます。

また御野郡側の元浜村域を御野郡浜屋敷村、上道郡側は旭川東岸の古京町の一部としています。

明治時代になり、浜屋敷村が明治8年1月8日に越郡合併で古京町へ編入。
さらに旭川東岸部の4村(浜・西川原・東川原・竹田)の上道郡移管が正式に認められ、同9年7月11日に4村が御野郡から上道郡へ移ります。

その後、明治11年9月20日に古京町は岡山区(岡山市の前身)の一部に。また同22年6月1日の町村制施行時に、浜・国富は周辺と合併し、それぞれ宇野村・三櫂村となりました。

さらに三櫂村は明治32年8月1日、宇野村は昭和6年4月1日に岡山市へ編入合併。

昭和42年に町区改訂が実施され、国富の南部の一部を分割して古京町へ加え、また丁目区分され、さらに古京町から後楽園中洲にあたる区域を分割して「後楽園」の新地区を設定しました。

2009年4月1日に岡山市は政令指定都市へ移行、当地は北区の管轄になりました。
なお、警察・消防は岡山中央警察署・岡山中央消防署が管轄。

参考資料

  • 谷淵陽一『岡山市の地名由来』平和納庫発行・吉備人出版製作(2002年)
  • 『岡山県大百科事典』山陽新聞社(1979年)
  • 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社(1974年)
  • 後楽園公式サイト
古い地名の由来は諸説あります。
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