平井(岡山市中区) 〜 「ヒラ」は平地ではなく傾斜地の意味!

平井(ひらい)は岡山市中区の町丁・大字です。大字としての平井、および町丁としての平井一〜七丁目があります。

かつて上道郡(じょうどうぐん)平井村(ひらいそん)だった地区。
江戸時代は元は漁村でしたが後に半農半漁の村になりました。

古い地名の由来は諸説あります。
あくまで当サイトでの見解です。

平井はこんなところ

平井は岡山市街地の旭川東岸に位置します。

操山(みさおやま)山塊の南西側端の斜面およびその麓一帯を北端部とし、そこから南方に広がる平野部にわたります。

その区域は逆三角形のような形。

区域の南端付近を大字の平井とし、北側から順に平井1~7丁目の町丁があります。

北部の操山斜面に山陽学園大学・山陽学園短期大学があります。
その麓にはかつて運河であった倉安川(くらやすがわ)が東西に流れています。

南端の大字の平井を東西に国道2号線岡山バイパスが通過。
また平井の北西から南東へ岡山県道45号線が縦貫します。

この地区の山麓には「平井の清水」と呼ばれる名水があったといわれています。

岡山市街近郊の農業地帯でしたが、幹線道路の開通とバス路線の充実・マイカーの充実などにより宅地化が進行。ベッドタウン化。

モータリゼーション中心社会となったことにより、幹線道路周辺にロードサイド型大型店が多数進出し、郊外型市街地へと変貌しています。

史跡として、日蓮宗 妙廣寺、同 妙楽寺、戦国時代の豪族 平井右兵衛尉家兼の古城跡など。

地名の由来

「ヒラ」は古くは傾斜地を意味した

「平井」という地名は全国各地にあります。その多くは古代からある地名のようです。
当地は古代からあったのかはわかりませんが、他地域同様にかなり古くからあったとしても不思議ではありません。
もしかしたら小地名として存在していたかも。

現在「ヒラ」は「平ら」という意味ですが古い日本語において「ヒラ」は「傾斜地」を意味していました。

そして「イ」は「エ」が変化したものと考えられ、「江」つまり河川や海などの水域を意味すると推測できます。

後述しますが、もともとの平井は操山の南西麓一帯を指していました。「元平井(もとひらい)」と呼ばれています、

この地域は南部が干拓されるまで旭川の河口沿いでした。

つまり「平井」とはこの「元平井=操山南西麓一帯」を指したもので「海または河口沿いの傾斜地」という意味なのです。

歴史

平井は北部山寄りを除き、ほかの平野部は中世以降の干拓による新田地帯。

北部山寄り一帯は「元平井」と呼ばれ、その名の通り干拓以前からある元々の平井であった地区。
この地区は海に面していました。

古代においては上道郡(かみつみちのこおり)宇治郷(うちごう)に属していたとみられます。
ただし諸説あります。

中世になると荒野庄(こうやしょう)と呼ばれる荘園がありました。

平井村は現在の平井にある小字 五軒屋周辺から始まったといわれています。

『備陽記』には最初は漁業中心の村とあります。
その後徐々に南部を干拓していき土地を広げ、半農半漁の村を形成しました。

江戸時代は岡山藩領分。

慶長10年(1605年)の岡山藩の記録書『備前国高物成帳』には平井村の記載があり、また同じく岡山藩の記録書『吉備温故秘録』には石高1318石8斗、船58艘、漁者多く年中業としてあります。

それには白魚の名産地で、竹の子笠が産物であるなどと記されています。

他に児島湾でイナ・エビ・シクチなどを獲っていました。

元禄5年(1692年)に平井村以南に一帯に上南沖新田が造成されます。
平井の地形は大きく変わりましたが旭川下流を漁場とする白魚漁はなおも盛んで、毎年白魚祭が催されました。

しかし現代は白魚漁や白魚祭は行われておりません。

また江戸時代には村内の旭川岸に岡山藩家老の伊木・池田(隼人)・池田(和泉)・日置・土倉5氏の舟入がありました。

明治時代はしばらく単独の平井村でしたが、明治22年6月に町村制の施行により東隣の湊村(現 中区湊)と合併。新たなる平井村を新設。

そして昭和6年4月1日に岡山市へ編入合併します。

 

参考資料

  •  『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
  •  『岡山県大百科事典』山陽新聞社
  •  巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
  • 岡山大学付属図書館 『絵図で歩く岡山城下町』吉備人出版
  • 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
  • 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
  • 『古代地名語源辞典』東京堂出版
古い地名の由来は諸説あります。
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