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新保(しんぼう)は岡山市南区の大字です。
南区の最北に位置して北区と隣接。
幹線道路も通る中心市街南方の郊外型の新市街です。
あくまで当サイトでの見解です。
新保とはこんなところ
新保は岡山市街地の南方に位置する郊外型の市街です。
元々は農地が多い土地でしたが、岡山市街地に近く、さらに国道2号線バイパスや国道30号線が通過するなど交通の便も良いことから宅地や商店・企業など多く立地するようになり、農地は激減しました。
JR瀬戸大橋線・宇野線も近くを通り備前西市駅もすぐ近く。
かつてはJR大元駅から岡山港へ向かった岡山臨港鉄道が通り、新保駅が設置されていました。
同鉄道は廃線となって、現在は一部が遊歩道となっていて新保駅も一部残されています。
江戸時代は岡山藩領でした。
江戸時代前期の書物『吉備温故秘録』には御野郡(みのぐん)新保村が記載されています。
それによると石高1393石5斗、田畑83田丁6反9畝、家数100軒、人口は698人。
同書には加子浦だったとの記載があります。
加子浦とは水主(かこ)役といわれる水運関係の賦役を負う代わりに、領主から地先の海域の漁業権の占有を認められた漁村のことです。
当時は農村でありながら、漁場を生業とする漁師が住む漁村でもあったのです。
これは近くの青江村(現 青江)などもそうでした。
しかし新保の南方の海域は江戸時代初期に干拓されています。
ですので海から新保への水路のようなものが設けられていたのではないかと推測できます。
明治22年、町村制の施行を受けて御津郡西市村など周辺6村と合併して芳田村(よしだそん)になり、同村の大字新保に。
昭和27年4月1日、岡山市に編入合併。
現在は政令指定都市移行により南区に属しています。
新保は南区最北の地のひとつです。
地名の由来
中世の新開墾地の名称を継承。新しい土手を築いて開墾した土地。
新保の名は、中世に備前国御野郡(みののこおり)にあった御野(三野)新郷(みのしんじょう)の中の一部だった「新堤保」の名を継承したものといわれています。
新堤保が省略されて「新保」に変化したというわけです。
新堤保はその読み方は不明ですが「にいつつみ(の)ほ」または「しんつつみ(の)ほ」と推測されます。
「保」というのは行政単位のひとつで国郡郷の「郷」や荘園をあらわす「庄(荘)」の下に置かれた小さな単位です。
奈良の東大寺領野田庄(のだしょう)について書かれた平安時代末期の建久9年(1198年)の後鳥羽院庁下文(東大寺続要録)に、野田庄は西に三野新郷大安寺庄(だいあんじしょう)、南に三野新郷新堤保と記載されています。
地名が現代に残されていることから野田庄は現在の北区野田の周辺、大安寺庄は現在の北区大安寺周辺とみて間違いないでしょう。
この位置関係から見て、新堤保は現在の新保を中心とした地域と考えられます。
ですので新保が新堤保の名を継承しているという説は信憑性が高いと私は思います。
三野新郷が新たに隣接する海域を新たに土手を築いて開墾して出来た地なので「新しい土手」ということで「新堤」を地名に採用したのでははないでしょうか。
なお三野新郷ですが新堤保および大安寺庄が三野新郷の一部であることから、三野新郷の中心地域はそれと隣接する地となります。
大安寺周辺と新保周辺に隣接する野田周辺以外の土地となると自然と現在の今・大元・上中野・下中野・西市などの一帯と推定できます。
江戸時代初期に書かれた『備陽記』という書物も同様の推測をしています。
ちなみに三野新郷は応永14年(1407年)の記録では三野新庄になっていてそれまでに名前が変わったものと見られます。
まとめ
現在の新保は国道2号線バイパスも通り、郊外の新興市街地として発展。
宅地や商店・企業が多く立地して昔の面影はありません。
新保という名前に昔の郷愁を感じます。
参考資料
- 『日本歴史地名体系三四巻 岡山県の地名』平凡社
- 『岡山県大百科事典』山陽新聞社
- 巌津政右衛門 『岡山地名事典』日本文教出版社
- 谷淵陽一『岡山市の地名由来』吉備人出版
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