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国府市場(こくふいちば)は、岡山県岡山市中区にある大字です。
名前に「国府」が入っているとおり、かつて備前国の国府があった場所です。
岡山市立高島小学校・岡山市立高島中学校の学区内で、連合町内会はおおむね旧上道郡高島村域にあたる高島(たかしま)地区となります。
旭川の東岸域で、龍ノ口山南方・操山北方に広がる平野部の中央やや北寄りに位置しています。
明治前期まで上道郡(じょうとうぐん)国府市場村と称しました。
概要
国府市場は、冒頭の通り中区の中央北寄りに位置し、東西に長い区域となっています。
古代の条里制の名残を多くとどめる田園地域です。
しかし宅地開発も多く行われ、それにより損なわれた地区も少なくありません。
現在、農地と新興の宅地が入り交じっています。
古い時代には旭川が当地北西で複数の流路に分岐。
そのうちの数本が現在の当地を含む平野を貫流。
操山東部でそれらの分流路が再合流。
現在の中川町あたりで海に出ていたとされます。
当地は現在微高地が多く存在することから、大部分はそれらの流路に挟まれた中州であったともいわれます。
微高地はその時の川の作用による自然堤防の跡という事ですね。
地名の由来
やはり国府の所在地だった!
その名の通り、国府市場は備前国の国府(国庁、国衙とも。
古代の旧国を管轄する役所)があったといわれる地です。
なお備前国府は時代により場所が変遷したとの説もあります。
当地を流れる小河川の中井川の西部には国長、北古市場、南古市場などといった国府所在に関連すると推定される小字が今も残ります。
さらに国長には国長宮(冒頭画像が国長宮の拝殿)という神社が鎮座しています。
鎮座地は備前国庁跡であると伝えられています。
国府市場の最西端、西に突き出たような区域の所に位置します。
くわえて岡山大学農学部などが条里の調査研究を進め、国府市場西部を中心に8町四方の国府集落が営まれていたことが明らかになっています。
また、中井川以東の地には成光寺の地名を残す伽藍跡があり、瓦が出土しています。
当時の有力寺院とみられます。
歴史
古代においては、上道郡(かみつみちのこおり)に属し、上道郷(かみつみちごう)の一部と推測されています。
前述の通り古代に備前国の国府の所在地であったといわれています。
江戸時代には備前岡山藩領でした。
岡山藩の記録書『吉備温故秘録』には石高1319石1斗8升、田畑81町10歩、家数118軒、人口652人と記され、『古の当国国府の古跡なり』とされています。
明治になると明治22年6月1日に町村制施行を受けて、上道郡国府市場・新屋敷・今在家・祇園・賞田・湯迫・中井・雄町の8ヶ村が合併。同郡高島村を新設。
国府市場に役場を設けました。
その後昭和29年4月1日に岡山市へ編入合併。
昭和52年には高島地区の一部(今在家の一部と高島)が分離。
隣接地から分離した地区と合わせて新たな学区である旭竜が新設されます。
そして平成22年4月1日に岡山市が政令指定都市へ移行。
行政区が設置され、中区に属し今に至ります。
地理・施設など
主な地理
- 中井川
- 円蔵寺川
- 七ツ石川
- 中溝川
名所・旧跡
- 国長宮(備前国庁跡)・・・岡山県指定史跡
- 成光寺跡
- 法泉寺
最後にひとこと
国長宮の境内周囲は現在住宅に囲まれてしまっています・・・
生活感があふれていて、とても古代に思いを馳せるどころの雰囲気ではありません・・・
国長宮は備前国府跡に鎮座する由緒ある神社ですが、簡素な拝殿と、とても小さな本殿が建つのみ。
境内はまあまあ広いけど、社殿と案内板以外にほぼ何もなく、草も手入れされず、ただの空き地のような有様でした・・・
新興住宅が多い事もあり、住民の多くは由緒ある地ということを知らない人も多いのかもしれません。