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石見国(いわみのくに)は現在の島根県の西部にあたる旧国(令制国)です。江戸時代には別名・石州(せきしゅう)と呼びました。
古くから続く石見神楽(いわみかぐら)や、近年では世界遺産に登録された大森銀山、いわゆる石見銀山でその国名をしばしば耳にする方も多いでしょう。
石見国とは
島根県の西部。東は出雲国、北は日本海、そしてその沖合に隠岐国。西は長門国(山口県西部)。南は安芸国・備後国(広島県)。南東には周防国(山口県東部)。
地域は日本海沿岸と中国山地からなります。
南東から北西へ細長い範囲です。
ほとんどが山地・丘陵地で、平地は僅少。
沿岸部の河川下流周辺や、山間の盆地にみられる程度です。
古代の地名を残した書物『和名類聚抄』には石見国内に安濃(あの)・邇摩(にま)・那賀(なか)・邑知(おおち)・美濃(みの)・鹿足(かのあし)の6郡が記載されています。
さらにそれぞれの郡内の郷は、安濃郡8・邇摩郡5・那賀郡7・邑知郡5・美濃郡7・鹿足郡2で、石見国内全体で6郡34郷で構成されていました。
また駅家(うまや)は石見国には、波祢(はね)・託農(たくの)・樟道(くすち)・江東(こうとう)・江西(こうさい)・伊甘(いかみ)の6駅がありました。
駅家とは古代の主要街道(官道)では馬を使った移動のために、およそ30里(約16km)毎を目安に設置された施設。
そこで馬を管理して、駅家ごとに馬を乗り換えて移動していくという仕組みがありました。伝馬制(てんませい)といいます。
戦国時代に東部の邇摩郡に大規模な銀山が開発されます。
現在、世界遺産に登録されている石見銀山(大森銀山、佐間銀山、石州銀山とも)です。
江戸時代には江戸幕府直轄領となり銀山のある大森地区には大森代官所、銀山地区には銀山奉行所が設置されます。
銀の他にも銅も採掘され、大正時代に閉山になるまで栄えました。
地名の由来
那賀郡内に同名の石見郷あり
石見国の地名由来は神話由来や説話的なものも含めて諸説あります。
しかし石見国内の郡である那賀郡に、国名と同名の「石見郷(いわみごう)」が存在しています。
これは和名類聚抄に記載されています。
筆者は旧国名などの古い広範囲地名は、その範囲内に同名の小規模地名があるとき、その小規模地名が地名由来地であると考えています。
国内に同名の小規模地名=石見郷がある以上、この石見郷の地が地名由来地と考えます。
ですのでここでは石見郷説以外の地名由来説の紹介はいたしません。
石見郷は地形に由来
前述の通り石見国は那賀郡石見郷が地名由来地としました。
ではその石見郷の地名由来はなんでしょうか?
郷のような古い小地域の地名の場合、多くは地形に由来しています。
ただ例外もあり、例として部民(べみん)と呼ばれたヤマト政権直属の職業集団が居住していることに因んだ地名などがあります。
しかし「石見」という部民はありませんので、石見郷の由来は地形だと推測できます。
石見郷はどこか
中世に石見国那賀郡内に小石見郷(こいわみごう)という郷がありました。
「小石見検地帳」「岡本家文書」「肥塚家文書」などといた古い書物により小石見郷の範囲は現在の浜田市中心市街とその周辺一帯であったことが分かっています。
小石見郷は古代の和名抄に載る石見郷の後身とされます。
小石見郷は石見国を「大」と考えて、国名との差別化のために「小」を付けたのではないでしょうか。
つまり石見郷=小石見郷=浜田市中心市街周辺部というわけです。
石見郷=岩がちな海岸
石見郷であったと思われる範囲を見てみると、海岸に特徴があります。
一帯は浜田海岸県立自然公園となっています。
実際に訪れたことがあるのですが、海岸は断崖になっているところが多く、すぐ沖に岩石が海中に見えている場所もあります。
そこから「いわみ」という音は「いわうみ」が変化したものではないでしょうか。
海中に岩石がある地域、岩がちな海岸の地域という地形に由来して「岩の海」→「岩海(いわうみ)」→「いわみ」と変化し、「石見」の漢字を当てたと考えます。
まとめ
- 石見国の地名由来地は那賀郡 石見郷。
- 石見郷は後の小石見郷。
- 石見郷・小石見郷は現在の浜田市中心部とその周辺一帯。
- 石見郷の海岸は岩がちな地形で、特徴的。
- 石見=岩海=岩がちな海岸、が地名由来。
参考資料
- 『日本歴史地名体 島根県の地名』平凡社
- 『古代地名語源辞典』東京堂出版
- 池邊彌『和名類聚抄郷名考証』吉川弘文館
あくまで当サイトでの見解です。